毎日
… それはいつ、どこで、すべて終るのだろうか。「恩寵」によって - 導かれ
た - それ自身、即ち人が遂に神に会えるのにふさわしい位置、段階、条件に
なるのはいつであろうか。15.23.7.85, 巻1 8 2021… 私たちが、その「内なる神」に遭遇するとしたら、肉体の存命中に遭遇す
る事ができ、またそうしなければならない。それは他の時間や場所ではな
く、現世の人生の中で、訓練の結果としてそうならなければならない。それ
は自我に囚われない生命である。自我は自身の破滅を要請されるのではな
く、自己訓練することが要請される。人間として存在する個人は生きなけれ
ばならないが、絶対者に対して隷属して生きなければならない。これらの二
つの存在者が自身の自我となるのである。6.8.1.208, 巻2 8 2021私たちに存在する「神のような深い自己」は、それ自身のレベルで知り、感
じている、従って知的な理解と美意識は霊的活動の低いレベルでの反映に過
ぎない。16.25.1.153 8 2021仮の悟りが与えられることは、修行者の喜びと満足のためだけではない、そ
の枠組みで従わなければならない自己改革の義務がある。修行者の罪や弱点
に対しても光は投げかけられ、彼はその実態をより明確に見ることができ、
それをどのようにしなければならないかも理解できる。そして恩寵が与えて
くれる許しも見ることが出来るのである。14.22.7.2234 8 2021私たちは、「内なる神」の存在について時折確認する必要がある。
14.22.4.1135 8 2021私たちの先人は尊敬に値するが、その助言に耳を傾けることができるのは、
彼らが肉体だけでなく精神的にも老練で、何度も人生を重ね、それぞれの人
生から可能な限りの知恵を抽出してきた場合のみである...9.13.3.200, 巻6 8 2021… 否定的な考えを排除し、弱気な考えを即座に捨て去る習慣を身につけれ
ば、その人の性格はより早く強化される…13.20.3.82, 巻7 8 2021死がこの時間と空間の世界に住むことの代償であるならば、「ここ」も「あ
そこ」も「あの時」も「今」もなく、一つの段階から次に行く変化もなく、
空間もなく、時間もない世界が不滅のものとなるであろう…6.9.1.184, 巻8 8 2021瞑想の時に抱く何らかの想念は、信念と、共感と喜びを持って思い続ければ
自身の一部になり得る。これらの想念が前向きであり、建設的で、積極的な
ように維持され続ければ、瞑想の結果として、それらが内容や性格を作り出
す結果となり始める。1.4.0.779 8 2021何らかの機会に他の人たちとの接触を断つ必要が感じられたならば、それは
続ける必要がある。その機会を失うと、高位の境涯に進める機会を失うこと
になる。3.3.5.8910 8 2021… いつの日か修行者は、単に低位の一部だけではなく、絵の全てを認識し、
今世という落胆しなければならない人生を切り開き、それを無事に切り抜け
たのは、自身の「内なる神」であったと理解するであろう3.2.9.38, 巻11 8 2021無欲のサービスに従事している人々は一時的に自我から離れている。ただ
し、これはそのサービスが純粋であり、何らかの隠された動機や利己的な思
惑を持っていないものに限定される。13.20.4.23812 8 2021自我を重いオーバーコートを肩から滑り落とすようにしたとき、人は自由を
楽しむことができる。14.22.6.22213 8 2021通常、人は身体と精神を持っていると考えているが、身体の方を重視してい
る。しかし、良く考え分析してみると、これら二つを持ち、それらによって
生きているが、「私」という部分はそのどちらにも存在しない。一方で、
「私」というものは、不変であるが、捉えどころがない。それは、身体のよ
うに空間にあるわけでもなく、また精神のように時間に存在するわけでもな
い。それはまさに謎である…14.22.3.340, 巻14 8 2021仮に進歩したい、ましてや成功したいと思っている人がいた場合、私は、訓
練と忍耐という二つの必須条件を除いて進む方法を知らない。3.2.2.71, 巻15 8 2021「私は既に悟っている」という仮定は、高位のレベルを目指す謙虚な姿勢か
ら、自分がすでにそこにいるように創造的に想像することへの転換である。15.23.6.142, 巻16 8 2021謙虚さ: 自身にある「聖霊」により全ての男女を見てみよ、外の世界はいつ
も働き続けていることを思い出しなさい。12.18.3.6017 8 2021修行に対する忠誠さは、特に危機の時や毎日の出来事によって試されてい
る。一方では誘惑が彼を誘う、また一方では困難が彼に立ち向かう。修行者
は世間の偶像に対して跪くか、あるいは世間の混乱の中で強く立とうとする
か。その試練が来た時に修行者は知ることが出来る。9.13.1.8718 8 2021直感的なレベルで内部から受け取ったものが、能動的なレベルで移植されて
いないとき、それは完全なものとなる。13.20.4.30519 8 2021修行者は自身が、実際より大きく成長していると思うことにより、虚栄心と
思い上がりを満足させるため、かかる誤った思いになることを警戒しなけれ
ばならない。6.8.4.32820 8 2021この「内なる神」の特別の機能は、中世の時代や古代の知識人の間では良く
知られていた。エピクテトスは、「ゼウスは、それぞれの人のそばに、その
人を見守る役目の守護霊を置いた」と言っている。14.22.3.30221 8 2021ゆったりとしているか、賢明に励んでいるかに関わらず、「絶対者を思い出
す実践」は続けられる--二つの状況の違いはその強さと明瞭さである。15.23.6.22022 8 2021テストは、修行者が自身の理想を行動に移すことを十分に強く実行できる
か、または自身の欲望を抑え、感情を支配してその理想を達成できるか、あ
るいはこの修行より遠ざけようとする誘惑を強く否定することが出来るか、
それらを示すのである。3.2.3.6823 8 2021単なる自我の唯一の努力により、どうして究極の悟りが齎されるのであろう
か。それは道を開き、障害を取り除き、避けてしまう弱点を克服するだけで
ある…。聖なるものは聖なる実体でなければ与える事は出来ない。つまり、
恩寵によってのみ、悟りは与えられるのである…12.18.5.162, 巻24 8 2021仮に修行者が自我自体を本当の真理と思い、思考と傾向性の合体した物と捉
えなかった場合、その幻覚に入り込み、そこから抜け出る事は出来ない。6.8.2.3325 8 2021それが開示されるかなり以前より、必要な内的支援を私たちが依頼しなくて
はならないのは、内的人生の法則のようである。12.18.2.19226 8 2021その意識が人を捉えたとき、それは突然占拠する。無限さは修行者が幾ばく
か前に体験していたことと完全に異なり、あたかも空から落下して来たよう
に、その驚き、その真理、その美しさ、その愛は彼を突然完全に覆ってしま
う。14.22.6.527 8 2021自我の束縛より解き放された程度に従い、私たちはその精神的不安や感情的
苛立ちより解き放される。その力が弱まるのに従い、私たちには不安のない
平和が訪れる。6.8.4.47528 8 2021仮にあなたが黄泉の国まで降り落とされたとしても、この信仰と愛はあなた
を支援し、救ってくれる魔法のお守りである。12.18.1.2229 8 2021… 真理を求める修行者は自身の魂と共同して内部を求め、人類と共に外部に
働きかける。人生は修行者を故郷に戻し、また人類の仲間たちに友情を与え
る指針である…13.20.3.82, 巻30 8 2021人生の退屈さは、涅槃の平安を望むと、二度と生まれたくないという欲求に
もなるが、それは人生の苦しさをあまりにも深く体験したことから来る場合
もある。また、それは輪廻を繰り返しあまりにも他の人よりも長く体験し、
その中で全ての種類の体験に満たされ過ぎたことから来る場合もある。即
ち、それは疲れ切った自我を消滅させたいという願いでもある。6.8.4.35331 8 2021
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