毎日
この仕事は、精神状態が真理を観察するのに障壁となるもの—つまり、ある
がままの現実を見ること困難にしてしまう状況や条件を全て取り除くことか
ら始まる。6.8.4.1861 8 2020私たちがどこに行こうと、自我と思考は私たちについてくるが、だからと
いって居住する都市や国を変えることで、精神状態が変わるという信仰は全
く根拠がない。9.13.2.3712 8 2020彼は今まで長い時間と多くの思考をこらし、感情を込めたことに対して、背
を向け、それらに対して超越的なレベルとならなければならない、--それが
「短期修行」である。15.23.1.723 8 2020未来に対して不安を齎すような環境の変化は彼を驚かすことはない。それら
は彼に興味を齎すのである。それらは自身の今後の成長にとって必要な力を
与えてくれるような新しい道なのかを、彼は考えるのである。2.1.5.2164 8 2020…彼が自我に固執しないと望むならば、何物にも固執してはならない。内的
に偉大であるとか、聖なるものをある程度獲得したとかの感情も持つことは
ならない。12.18.4.140, 巻5 8 2020世間的人生を超越することはそれを捨てることだという理解は、霊的には停
滞を意味する誤りであり、それに陥るのは容易である。この誤りは、行動す
る原理は事物ではなく、彼の思考であるということが明確に理解されていな
いことから起こる。二番目の行動は、一番目の思考の結果から起こるのであ
る。3.2.7.1446 8 2020私たちは個人的にそのような経験がなく、そのような知識がなくても、高位
の力は存在すると直観的に確信していることがある。14.22.3.597 8 2020過ぎ去った一日の出来事を夜にふり返ることや、朝、その日に起こることに
ついて、考えをこらすのは貴重な訓練である。15.23.6.728 8 2020悟りへの覚知はそれに干渉しようとする自我が存在しないときに、最高の働
きをする。かかる干渉は、哲学がいつも修行者に警告しているような誤解や
混乱から起きるだけではなく、その体験がどのように起こり、どのような効
果を齎しているのかを分析し、それに対して他の人々がどのように反応する
かを観察したいとすることからも起こる。それらのことは実行しても構わな
いが、覚知が起きている時にすぐに行ってはならない。そうではなく、自身
の意識が通常の状態に戻った時に、それらについて考究してみれば良いので
ある。覚知の起きている間は、それに対して完全に沈黙していなければなら
ない。14.22.5.1659 8 2020未来に対するこの沈黙は、怠惰さや無気力を意味するのではない。無用な悩
みや不必要な不安を消去することを意味しているのである。12.18.4.3710 8 2020人がこの道を始めるきっかけは必ずしも説明できるものではない。どうして
それに従うことになったのかを説明するのはときに、難しい、何故ならそれ
を始めると自我がしたいことを妨害し、最終的には無理やりそれを消滅して
しまうからである。彼が知っているのは自身の内の何かがこの道を進ませ、
自身のプライドや情熱、そして自我を傷つけるにも関わらず、それを勧め、
続けさせているのである。2.1.2.24511 8 2020これまでは彼は一部しか彼自身ではなかった。しかし、今は輝かしい永遠の
世界に入ることにより、自身を完全に取り戻した。今や、彼は、自身の中心
から直接、他の人々に話しかけ、世界に進出し、関係者に働きかけることが
出来る。歪曲や、偽善や、不誠実を犯すことなしに。16.25.2.1412 8 2020… 思考が止まり、有限な人格が消えたとき、人は全ての意識を失ってしまう
だろうか。いや、--彼は有限な人格や思考そのものを支える純粋な意識や深
い生命を持ち続ける。6.8.4.483, 巻13 8 2020哲学を学ぶため教師を求める全ての人たちに対して、教師は、彼らが次の三
つのレベル—即ち身体、感情、意識の分野において、喜んで訓練するという
意志がない限り—教えることは出来ないということを明確にする、つまり、
「長期修行」の道も喜んで従わなければならないのである。15.23.5.17514 8 2020キリストが後悔を呼び掛けたとき、彼は現在の「罪」の状態を去って、以前
の高潔と思われる状態に戻れということを意味してはいなかった。彼は、そ
の古き状態も共に捨て、完全に新しい状態を目指せということを意味してい
た。12.18.5.21415 8 2020… 悟りへの覚知を体験した後、毎回、思考の過去における傾向性が頭をもた
げ、心を覆いつくし、その覚知を遠ざけ、以前の修行に戻るように仕向けら
れる。このようなことが起きたときでも、修行者は修行を続けなければなら
ない、但し、次のような異なる気持ちを持っていなければならない、即ち、
以前と同様に盲目的に修行することはなく、自身を「内なる神」に変革さ
せ、進化を経て、新しい境涯に進んでいるのである…15.23.6.110, 巻16 8 2020この修行は遊びのためにするものではない、それについて議論するだけの
人々のものではない。自身の全ての人生をそこにかけるため、必要だからこ
の修行に入るのである。12.18.1.6117 8 2020哲学の骨子は単に精神的な内容にあり、直観的に感じ、知的に学ぶものであ
り、外的な枠組みはなく、教団や組織されたグループの媒介となるようなも
のはない。それは全ての人々に個人的な形で指針を与え、内的に成長させよ
うとするものである…2.1.3.141, 巻18 8 2020この神秘的悟りは全ての人々が死を迎える時、または性的交渉の高揚した瞬
間の、一瞬の間に、経験する。14.22.4.5419 8 2020全ての生命が高位の所に昇華し、自身の生命も、全ての生命と完全な調和の
中に存在している至福の瞬間がある。14.22.6.9720 8 2020全ての立場において彼は、相違を識別し、魂の指針に応え、自我の囁きを遠
ざけなければならない。そうすることにより、魂は彼の霊的至福のため、最
高のものに導くように指針を与える。自我は悪いことをさらに悪くするだけ
なのである。6.8.4.17921 8 2020それは真実であり、それは存在しており、私たちの存在の中で活動してお
り、その力と指針は感じられ、認めることが出来る。14.22.7.17222 8 2020自我のない、素晴らしき過去の霊的体験を想い出し、その記憶に再び集中せ
よ。15.23.6.18523 8 2020野心というものは時ともに段々と魅力が無くなり、やがては何の関心もなく
なってしまう。それは何の意味もなく、人がそれに何も感じない時が来る。
若い人のみ、名声に情熱をかけ、リスクをかけるのに夢中になる。冷静な人
は、年齢の高い人がそれに飽きているように、無関心である。哲学は、その
信奉者に同様の無関心を勧めるが、新しい動機付けを与えることにより、否
定的な結果とはならない。5.6.2.19824 8 2020重要な方向における要素は… 自己内省であり、どのような状況にあっても一
日中、「内なる神」を思い出すことである…4.4.6.4, 巻25 8 2020精神的静けさを確保する闘いは、自我との闘いの前に初めに成すべき戦いで
あり、勝利しておくべき闘いである。なぜなら、他の思考が休息し、自我と
しての「私」という思考のみが、孤立し、目視され、攻撃された深い精神的
な状態でのみ、自我の力も無残に無くなり、遂には破壊されるからである…13.20.1.13, 巻26 8 2020— 修道女が通常の瞑想に励むのと同様に、曼荼羅は多くの修行者にとって
有益であろう— 通常の瞑想を困難、または不便であると感じる彼らにとって
はそれは極めて有効である—4.4.6.4, 巻27 8 2020人が自我の興味や欲望を十分に抑え込み、それらによって束縛されないよう
になっていたら、彼は自身の心に平和を呼び込む勝利を掴んでいるだろう—6.8.1.208, 巻28 8 2020自己改革への個人の努力や意志は、この修行において修行者を大きく成長さ
せるが、最後の段階への目標、または初期の頃の手詰まり感を脱出するのを
支援してくれるのは恩寵であり、恩寵の力のみである。12.18.5.15729 8 2020他の誰も怖くなくなっても、人は自身を恐れなくてはいけない—そのように
ローマ時代の思想家は言った。自我が完全に克服されるまで、警戒はいつも
必要なのである。6.8.4.23530 8 2020人のカルマの働きは、自身の自我意識が無くならないうちは、決して終わる
ことはない。しかし、自身についての意識、それが全ての原因であり、要因
であるのだが、その意識が棄却されたとき、未だに現実となっていないカル
マまで、棄却されてしまう。6.9.3.57831 8 2020
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