毎日
それが人間の精神面を、哲学によって可能とする全面的な発展である。それ
は神秘的直感を論理的思考で均衡を取り、宗教的信念を批判的考察で、また
理想的献身を実務的サービスで均衡を取るのである。13.20.3.4301 8 2017結局、この教えによっていくばくかの読者が高位の力という神秘を差し込む
ことに多少でも役立ったとしたら、それは彼らを大きく助けたことになる。8.12.3.1882 8 2017これらの教えは推測した結果ではないし、意見の反映でもない。それらは内
なる眼を開くことによって得ることが出来た真理への洞察である。これらの
教えが、著者に既に齎した啓示と同じものを何れかの読者に与えるものであ
れば、この事実を謙虚に指摘しなければならない。8.12.3.583 8 2017恩寵が光臨した後、彼は人類の多くを悩ましており、自身も持つ激しい欲情、
不快な欲望、取るに足らないエゴイズム、そして醜い憎悪を超える強大な力
により、高揚している自身を感ずるのである。12.18.5.3194 8 2017人生の最後が訪れ、人が風前のローソクのようにこの世を去るとき、何が起
こるかは彼の性格、その時の意識、今までの準備と彼の持つ最後の思考によ
る。6.9.1.835 8 2017深い瞑想の状態では----外的世界の事物でも、内的世界の思考でも、二次的な
ものに対する意識は----消えてしまう。しかし、意識が無くなるわけではな
い。 そこに残る意識は静かで連続する無私の不変の意識である。これが人の
深奥の存在である…15.23.7.293, 巻6 8 2017イエスが「父と子」の例えを使用したのは、人の内的自我が、高位の力であ
る神から生まれ、しかも現在でも神と関係があることを指摘することを意図
したからである。16.25.1.57 8 2017私たちは私たちの存在について神秘の存在とも言える深いレベルでは理解し
ていない。私は普通の人類について話しているのであり、幻想と無知を消滅
させた偉大なる人々について言っているのではない。2.1.1.938 8 2017彼が自身の悩みについて彼自身が主なる原因であり、その他の人々は二次的
原因であると見た時のみ、彼は正しく見ている。6.9.3.1789 8 2017… 「内なる神」についての幸福な体験は、瞑想しているときに一時的に訪れ
る。それは突然やってくる。ある時には修行者は、落ち着きのない思考と混
乱する感情に苦闘するが、次の瞬間には自我が突然消え、全ての 器官が停止
してしまう。ここで全ての修行者がしなければならないことは、彼を所有し
始めた神聖な力に抵抗しないことであり、苦労して立ち向かうのではなく、
愛おしく受容することである…14.22.8.107, 巻10 8 2017人は一時に1つの思考のみ持つことが出来る…これを応用すると、彼の個人
的で 独立した自我についての思考に執着していること だけが「内なる神」
を認識することを妨げていることになる…6.8.4.31, 巻11 8 2017彼に求められる資質は最高のものに対する愛、真理に対する欲求、摂理と矛
盾しない生き方、自己の人格におけるバランス感である。2.1.2.6012 8 2017私たちが誰かから不法行為を受けたとき、一般的にそれは過去世に私たちが
誰かに不法行為を働いた罪滅ぼしをしていることを意味している。その原因
が私たち自身の歴史にあるとしたら、被害を受けた不法行為について泣き叫
んでも意味がない。怒りより起こる当然の感情を抑え、何に対して罪滅ぼし
をしているのかを理解し、その教訓を心に刻むことが最善である。9.13.2.42013 8 2017心の内部に全ての成就があり、心の内部に巨大な力が潜んでいる—だが、あ
なたは未だにそれに触っていない。今まで、成就してきたことがどんなに些
細であれ、これからは大事を成すことが出来るのである。2.1.5.2314 8 2017人々の成長には異なる段階がある: ある人は低い段階にあり、ある人は高い
段階にある—ある人はその中間にある。人間において、性格、マナー、知
性、直観力が同じということはない…16.26.4.201, 巻15 8 2017第一の死により私たちは身体を離れ、第二の死により、自我より離れる。だ
がこれで終わりではない。「内なる神」の中に私たちの最終の存在を発見す
る。6.9.1.8216 8 2017最後に見るとき、人生はそれぞれの人が本当の自身を見出すためのプロセス
である。人の霊的性格は潜在的に存在するのではなく、現実に存在…13.19.4.75, 巻17 8 2017人生の全ての経験は最終的には、「内なる神」を心の底から求めることを勧
請している。即ち、この修行の入り口に導いていることになる。2.1.2.47518 8 2017哲学の教えは全ての預言者の回帰は内的イベントであり、物理的なものでは
ないとしている。物質主義者であり、精妙なる理解力に欠ける一般大衆は、
自身の身体を再び見ることを期待している。悟りを開いた人たちは自身に霊
的存在しか期待していない。12.17.1.7619 8 2017それぞれの個人の精神を支えているものは、普遍の精神である。従って、社
会的、倫理的行動で彼にとって最善のものは、全ての人類にとって最善の条
件を満足していなければならない。それ以外は全て不完全である。13.20.4.23520 8 2017哲学者が叡智と強さを得ているのは全き謙虚さと気高い自己依存を使い分け
た見事なバランスによる。彼は自己を絶えず放棄して神の前に跪き、時に自
己を卑下した祈りを捧げる。しかしながら、それと並行して、自身の知性、
直観力、意志力、そして人生における経験を発展させ、その中でそれらの能
力を磨き、それを応用しようと努力している…13.20.5.16, 巻21 8 2017同じ「内なる神」が私たち全ての人の背後にあり、また私たち全てを包含し
ている。14.22.3.8122 8 2017短期修行ではいくつかの徳において収穫を得るであろうが、それはそれらを
得ようと努力したからではなく、自ずと得られるのである。このようにして、
それは、彼の思考と瞑想がそれらを意識することもなく、彼の熱情を鎮め、
自我を訓練するのである。15.23.1.15223 8 2017… 努力してではなく、「内なる神」に意識を絞り、自我を無視する方法によ
り、反対の道、「短期修行」をどうして試さないのだろうか。15.23.2.131, 巻24 8 2017「短期修行」の逆説であるが、一方では悟りを得ようとして修行に励み、他
方、自己の欠点、制約や弱点を率直に告白して、しかもそれらを率直に認め
ること。この結果、奇妙な心の平安が彼に訪れ、それが自然な状態となる。
しかし、それは虚構の平安ではない。悩みや懸念を拒否し、恐怖を拒んでし
まうのである。15.23.1.16925 8 2017人は神の顔を見ながら生きることは出来ないという聖書の隠喩は何と正しい
ことか。確かに神を存在させるためには、自我は死ななければならない。6.8.4.5226 8 2017ある男性または女性が「新の自己」に覚醒した時、彼は自己の本当の仕事を
発見し、同時にそれを実現する能力を知る…13.20.1.321, 巻27 8 2017時間を浪費するには年を取り過ぎているとの思いは定期的に戻ってくるが、
それは、私は再び生まれ、来世の生活では必要な全ての時間があると気が付
くことにより、打ち消され、消滅していくのである。8.12.6.11728 8 2017全ての人に希望はある、何故なら全ての人にとって「恩寵」があるからであ
る。許しや浄罪、更生が見つからないほど罪深い人はいない。12.18.5.9329 8 2017全ての人はカルマが残っていたら再度肉体を持って生まれてくる。自我によ
る思考に執着している精神的くびきに終止符を打たない限り、全てのカルマ
は再生を逃れられないものにしている。6.9.2.1730 8 2017私は霊的に進んだ人たちが死と呼ばれ、意識の異なる世界に移行するのを見
てきたが、彼らは病床に伏す遺族たちに、自然界の悲しみに対する慰めを与
えるかのように霊的太陽を降り注ぐ。この事実は自然界におけるこの普遍的
イベントが実はより輝かしく、幸せで、自由なる存在へと移行する印象を彼
らに与えているのである。6.9.1.8431 8 2017
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