毎日
... 彼は突然それは霊的抽象ではなく、何か真実のものであり、また夢では
なく彼の経験上最も具体的な事物であることを発見する。そのときこそ、彼
は自信を持って宣言することが出来る、「これがそれなのだ」と。彼は遂に
「内なる神」を発見したのである。15.23.8.118, 巻1 8 2015書物の文言は意識をあるところまでは、あなたを運んでくれる。しかし、こ
こに到着したときは、書物を閉じることによってのみ、その先に進むことが
出来る! これまでは十分に役だってきたが、今や新しい源に依存しなければ
ならないのである。思考を鎮めよう、直感がそこに表れてくる、聖なる存在
が感じられるはずだ、それに身を放擲せよ。5.7.3.2712 8 2015この忙しさと騒乱と外的なことに没頭している最悪の結果は、直感に頼る人
生という時間がなくなってしまっていることである。15.24.2.563 8 2015何人かの修行者は、恩寵が「修行道」における成功への最終的要因であると
聞くと失望し、落胆する。確かにこれでは問題が自分たちの手から離れ、運
によるものになっているようにも見える。だがこれはあまりにも否定的態度
である。確かに恩寵は自分たちの自由にはならない。しかし、それを誘引す
るための環境やそれが入り易くするための条件は自身によって決まる。12.18.5.1654 8 2015もし彼が恩寵を得たいのであれば、それを取得するため、次のようなことを
しなければならない、つまらないこと、または有害な(否定的なため) ゴシ
ップや活動を慎むこと、性格を浄化すること、聖人の悟りについて学習する
こと、自己の人生について反省すること、心を落ち着かせ、感情を制御する
こと。12.18.5.1745 8 2015男性的な気質と女性的なそれが私たちの中で合一され、完成され、バランス
が取れたとき、男性的力と女性的受容力が人の内部で合一され、知識と尊崇
感が男性的力と女性的受容力を包んだとき、智慧が魂の中で沸き起こり始め
る...16.25.2.120, 巻6 8 2015カルマは出来事を通して表現され、偶然のように見える。しかし、表面上そ
う見えるだけである。6.9.3.2317 8 2015... エゴが自己を表現しようとするのは当然で、それが世間のことから身を
引いた時でも続けてそうしようとする。人間の出来事にエゴが支配する力を
失ったとき初めて、「内なる神」は姿を現し、それらの出来事を彼のために
支配してくれる、しかし、この立場には単にそのように言ったり、望んだか
らといって到達しない。それは生涯をかけての戦いの頂点なのだ...3.2.9.66, 巻8 8 2015最高のオラトリオを世に与えたのは病気で苦しみ、老いて元気のないヘンデ
ルであった。どうしてそんなことが出来たのだろうか。ヘンデルは座して動
かず、空間を凝視していた、そして遂にコーラスが内なる耳に響き渡ったの
である、ヘンデルはそれを一気に数時間に渡って書いた。これを3週間続け、
メサイアは生まれたのである。9.14.4.3299 8 2015点々と広がる国々、大きく異なる気候、世紀を超え、何処にいようとも、人
類はこの聖なる存在を体験してきた。これは何を意味するであろうか。それ
は場所とか時間に依存せず、空間についての法則にも捉われないということ
である。14.22.3.23010 8 2015他人がその行動や言動で私たちを挑発したとき、苛立ち、憎み、怒るのは容
易であり、平然と耐え忍び、哲学的意味での寛容さを実行するのは困難であ
る。しかし、それこそ修行者がしなければならないことなのである。5.6.5.14411 8 2015私たちが私たち自身の内部を探求したとき、外部の世界が入り込めない空の
世界にぶつかる。そこは聖なる静寂のみがあって何のイメージも、どんな形
の物も見えない。これが私たちの存在の究極であり、これが本当の霊的存在
なのである。15.23.7.14912 8 2015真理を強く希求し、正しい価値観を持っている者は、この道に不可欠な資格
を既に所有しており、その道を進んで行けると言える。しかしながら、全て
の障害にも拘わらずに続ける意志と、特別な忍耐力が必要である。初期の段
階においては特にそうである。2.1.2.6113 8 2015... 思考と行動はカルマによって反映されている...
2.1.2.439, 巻14 8 2015哲学は人をして良き自身を発見させる方法を教えてくれ、直感を養うように
導き、健全なる価値観と強固な意志を獲得するよう誘引し、正しく考え、賢
く反省するように訓練してくれ、そして最後に倫理的に正しいか間違いにつ
いての正しい基準を与えてくれる...13.20.1.337, 巻15 8 2015「内なる神」は人間の中心に存在しているのだが、現在の私たちの意識のレ
ベルから見ると、とてつもなく、距離がある。何をもってしてもその距離を
縮めることが出来ない、これが私たちの思考に挑戦される最大の不思議な謎
である。14.22.3.616 8 2015「あたかも」既に達成していると思う訓練やその他の方法が何と呼ばれよう
とも、要諦は目的地は既に到達されていると考えることであり、最終を初め
に置き換えてしまうことである...15.23.6.120, 巻17 8 2015大急ぎで決断をすることは不安定な心にとってはパニックを起こしてしまう。
ここで最も薦められることは、静かなる「静寂」そのものに沈み、騒然とし
た思考の圧力を追い払い、心的静けさが自ずと表現するまで忍耐強く待つこ
とである。その時こそ、直感的指針が浮上することが出来るのである。9.13.2.27918 8 2015全ての人に、彼が必要とする霊的知識がどのようなものであれ、それを与え
てくれる教えの原理が存在している。しかし、彼はそれを喚起するため、必
要な措置を取らなければならない。その措置とは身体を清めること、感情と
思考を高めること、知性とエゴを鎮めること等である。2.1.3.7319 8 2015... 「何もしなければ何を得ることも出来ない」のは自然界の法則である。
何かを得たければ与えなければならない、つまりエゴに存在し、それらに執
着して悟りへの障害となっているものを放棄しなければならない。15.23.2.79, 巻20 8 2015... 人が霊的修行を始めるとき、最初の進歩は彼自身の努力のみによる。し
かしながらこの進歩が止まってしまい、停滞しているように見えるときが来
る。これは彼が準備段階の終わりに来ていることを意味している。停滞は自
己の努力だけではもう十分ではなく、「恩寵」に縋る道に入らなければなら
ないことを意味しているのである...2.1.3.314, 巻21 8 2015直感が霊的洞察になるにはそれを繰り返し使用することによってのみ可能で
ある。14.22.1.29222 8 2015「内なる神」からその最大の祝福、恩寵を期待する人は、そのために 自分
が 喜んで何をしようとしたかを自問すべである--—時間数、愛、自己犠牲、
自己訓練。12.18.5.18323 8 2015彼がこの遷移を十分に終えたとき、彼の低位の資質は全て取り除かれている。
エゴは消滅するだろう。自身の感覚や欲望に従属し、思考や無知により、盲
目となるのではなく、彼の心は「内なる神」により啓発され、高まり、解放
されている。しかしながら人間としての人生は破壊されていない、何故なら
彼は聖なる「内なる神」に生を没入しているからである。最早、今までの低
劣な生き方は続けることはない。今後、自己は魂の完全に忠実な道具として
機能し、動物としての身体または知性の道具とはならない。邪な思考や動物
的激情は彼の心を捉えることはない。従って、彼の性格として残る物は不壊
の部分であり、不滅の部分である。死は小さな物は奪うが、彼が心から望ん
だ物は奪うことはない。壊れる物とは既に別れを告げている彼の心は、混乱
することなく、気高い諦観により、それを待つことが出来るのである。16.25.3.16824 8 2015全ての人は何かのとき、内部からの直感的閃きを受けている、そして一部の
人は絶えず受けている。従って直感は稀有で特別な現れではない。稀有で特
別なのは純粋にそれを受けることであり、それを正しく理解することである...14.22.1.194, 巻25 8 2015冷淡な利己主義は損な投資である。何故なら困ったときには誰も助けてくれ
ず、苦難のときには誰も慰めてくれない。私たちが与えた物が返ってくるの
である。6.9.3.22826 8 2015制御がそれほどまでに完璧なので彼は怒りに任せて声を荒げることはもう出
来ない、彼が注意を向ける必要のある他の欲望は一つで、それは性欲である。5.6.4.3827 8 2015人が内的静謐さを保つ範囲に応じ、その範囲だけ自身が解放され、完全無比
なる「内なる神」が輝き照らす。15.24.4.9328 8 2015修行者が初めて「空」に接触したときは恐怖を感じるかも知れない。彼が形
而上学的準備を十分にし、究極の真理に迫る強固な決心をしていない限り、
無限に広がる空間の深い底にたった一人で--肉体を離れた精神として—--存
在しているという意識は衝撃を与えるかも知れない。しかしながら、彼の恐
怖は当っていない...15.23.8.35, 巻29 8 2015... 初期の段階では、エゴはこの活動に駆り立てる動機を与えたりしており、
霊的活動の契機となっていた。しかし、そのエゴは、自身の破滅については
真摯ではあり得ないし、自身のリソースからは自身を超える境涯に昇る力を
引き出すことは出来ない。そこで自己努力を中止し、神あるいは「高位なる
自己」等、様々の名前で呼ばれる高位の力に自己を放擲し、それ以上の進歩
をその力に依存してしまう、そのような時点に到達しなければならない...2.1.3.314, 巻30 8 2015... 神は文字通り私の中に存在している。神の「私」が、私の「私」を実現
するのを可能にしているのである...16.25.1.3, 巻31 8 2015
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