毎日
時たま、修行者は自問しなければならない、自己を超越するために人生はその都度、何時間、
時間をくれると希望できるかを。3.2.8.91 8 2013「修行」は、人が教師や教えから離れ、自身の内奥から啓示を受け始めたときに、終わる。そ
れまでに得たものは誰かの考えであった、しかし今の彼は自らの体験によって直接、知識を得
る。15.24.4.692 8 2013「あたかも」の実践は精神的に生まれ変わり、新しい生き方を発見させてくれる。悲しいほど
無力な人に勇気を与え、過去の失敗に囚われている人に希望を与えてくれる。15.23.6.1113 8 2013「内なる神」がエゴを投影させたためにその源泉を今まで否定させ、今度はエゴが元に戻るの
をいつまでも待つというのは、皮肉ではなかろうか。6.8.1.1704 8 2013人が見たり思ったりすることはその人自身の影のような部分から得た意識に過ぎない。実はそ
の深部に本当の自身がある。この究極の「意識」から思考や感情が限定された肉体に放出され
ている。これを発見し、知ること、これは人がいずれかの日に成し遂げなければならない義務
である。2.1.1.1185 8 2013人にはその過去に背を向けなければならない時が来る。何故なら古い彼は見知らぬ人となり、
新しい人が生まれてくるからである。記憶はこのプロセスを妨害するであろう。3.2.7.206 8 2013私たちは大地より切り離され、その別離により不幸を感じている花々のようである。私たちが
神秘的体験を熱望していることは私たちが「源泉」と再会したいという表れである。12.17.1.187 8 2013死とともに意識は新しい環境に移るが単なる空虚さに移行したり、頭脳と一緒に粉々になって
地に埋もれたりするのではない。そうではない! それは生き続ける、何故ならそれこそが人の
本当の存在だからである。6.9.1.578 8 2013「短期修行」は新しいスタートをするチャンスや、また新しいインスピレーション、さらには、
より多くの喜びを与えてくれる。15.23.1.1809 8 2013修行者の中にはその考え方においてもひたむきであり、志においても誠実であるにも関わらず、
神秘的体験を経験することはなく、超常的経験も知らず、霊的高揚を経験したことがない大勢
の人がいる。しかしながら、これらの人たちは、哲学的にはこのような現象は霊的成長の重要
な物差しでは全くないことを知れば、慰められるだろう。人格を高潔にすること、直感力を高
めること、そして内的静けさを養うことのほうがはるかに重要だからである。11.16.2.10510 8 2013人には人格を矯正し、人生を変革するリソースが備わっている。しかしながらそのリソースは
手つかずのままであり、開拓もされていない。14.22.3.6311 8 2013… 新しい体験を得たいという意識の底には自我の不滅の核心とも言うべきあるものに対する無
意識の憧れがある。平静で一点に集中し、敬虔な心はそれを知っている可能性がある、また自
己もその中に溶け込んでいくこともあり得る。14.22.3.10, 巻12 8 2013… もし本当の自己を知ることができたら、それに関わる全ての資質や性格についても同時に知
ることが出来てしまう。そうしたとき、低位の自己の資質や性格がその高位の環境でどうして
繁栄したり、あるいは存在することすら出来るだろうか…15.23.2.41, 巻13 8 2013人生は夢のようであり、根本的には精神的なものであると理解した人が、その結果、ある意味
で執着から離れることを実践したとき、時間の経過とともに労せずしてその人格に平静さと落
ち着きが備わってくる。15.24.3.10314 8 2013… 時として人はもう一人の自己、本当の意味で最高の自己を垣間見る。それは時間の経過によ
って得られるというようなものではない、何故ならそれは永遠に備わっているものだから…6.8.1.143, 巻15 8 2013「長期修行」での修養を永遠に続けることに満足している人々でも、ある日、心の底から何か
を感ずることがあり、それにより「短期修行」に導かれるものである。15.23.4.15816 8 2013創造的能力は、霊的成長への支援となる、またそれを表現するためにも、磨かれ、発達させな
ければならない。9.14.2.1317 8 2013この世に生を受けた本当の事業は「内なる神」を発見するためということを知らない事業家は
財産をつくることは出来るかも知れない。しかし生涯を浪費してしまう可能性もある。その人
の仕事と心は、「内なる神」と調和が取ることが出来るときに、それらから離れて孤立してし
まっているのである。2.1.1.8518 8 2013どうして昨日の私と今日の私が同じなのか、そして同じと知っているのか、また一年前のこと
をどうして覚えているのだろうか。答えは、思考や経験とは別の連続する自己または存在、あ
るいは心が私の中にあるからだということであるはずだ。6.8.1.9719 8 2013「長期修行」の義務や労苦から解放された以上、当てもなく夢想したり、また怠惰な楽天主義
に身を任せる以外にやることはあまりないという誤った考え方に陥ることは可能性としてある。
しかし、それは違う、異なる種類ではあるが、彼は新しい義務や労苦を引き受けたのである。
「休みなく祈る」という本当の意味を学ぶとともにそれを実践しなければならない。また、一
回の時間は一分か二分であっても一日に20回瞑想しなければならない。また、自己について、
また自己の重要な神性について一日に100回も想いを凝らさなければならないのだ。15.23.6.206, 巻20 8 2013人は静謐さが強く存在するときにその感情を養うことを学ぶべきである。そして他の全てを無
視してその感情に没入すべきである。何故ならそれはそこに隠された貴重な何かを伝えてくれ
るからである。15.24.2.3821 8 2013人は自身の行為や動機があたかも他の人のものであるように観察し、分析し、それらから離れ
る方法を学ばなければならない。そして「内なる神」の冷静な智慧が自身の行為に反映され、
全てから離れた自己がその動機に反映されるようになって初めてその方法を止めることができ
る。3.2.6.1122 8 2013人類は科学者として海や空の数えきれない個体を観察してきた。それらに対しては徹底して検
討してきた。しかし自身のことについては上っ面の観察しかしていない。人類は調査の対象を
初めは身体に限定し、次は思考が発見できることに限定した。しかしながら、さらに深いレベ
ルが存在しており、そこでは隠された自己が発見できるのである。2.1.1.16423 8 2013全ての生き物について愛を送る行為は宇宙的喜びとも言える陶酔状態をもたらす。
15.23.6.6024 8 2013爆弾のショックにより、自分の名前も過去のことも忘れてしまい、記憶喪失に陥った兵士でも
自分が生きているという意識を失ってはいない。過去の考えや残像は一時的あるいは永遠に消
え去ったとしても、その心は生き続けていく。6.8.1.10025 8 2013… 「短期修行」を理解することにより、修行者は次なる体験を求めるが、それを望むことはな
い。何故なら望み、体験することは最も重要な「高位の自己」から離れてしまうからだ。修行
者はあたかも自身が既に「高位の自己」であるかのように考え、行動する、そのことで「その
もの」に戻るのである…15.23.6.110, 巻26 8 2013人はエゴを見ることができるのに、その存在の源泉になっている「内なる神」を見ることが出
来ないというのは人生の皮肉である。そのため、人は、必要な注意を怠り、自身の内的成長を
遂げるためにこの世に生を受けたのにも関わらず、その成長への多くの機会を失ってしまって
いる。6.8.1.11927 8 2013人生は人に様々な意義を与えている。しかしながら最終的にその中で最大の意義は神との関係
についての真実を知ることである。2.1.1.8928 8 2013… 人が講義を1,000回も聞き、書籍を1,000冊読んだとしても「内なる神」を発見しなかったの
なら何の利益があるのだろうか。修行者はその段階を超え、自身の知力により自身の体験の中
で示されるものを追及していかなければならないのである。2.1.1.111, 巻29 8 2013人の最初の義務、そしてそれはその他の全ての義務に優先するものであるが、「内なる神」を
知ることである。それが最高の義務であり、その他の全ての義務はそこに頭を垂れるのである
…2.1.1.117, 巻30 8 2013この修行には二つの側面がある。一つは正しい思考や感情、行為を持ち続けるとともに、悪し
き思考、感情や行為をなくす絶えざる努力をすることである。「短期修行」と呼ばれるもう一
つは、「内なる神」について絶えず思いをいたし、それについて考えをめぐらすことである。3.2.5.20931 8 2013
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