毎日
… 人類がどのようなゴールを目指して、極めて遅々として、しかも殆ど意識
もせず、進んでいるのかを知ることは少なくとも良いことである。2.1.5.134, 巻1 7 2017彼が「短期修行」に入ったならば、瞑想のテーマは、個人的エゴを離れるも
のが適切である。例えば、神の栄光ある属性や宇宙の完成、または「内なる
神」の完全なる静けさ等である。4.4.4.652 7 2017普通の人は自分がエゴだと考える、何故なら自己の思考と身体を自己と認識
するからである。悟りを開いた人は、自己を思考と身体の背景にある「意識」
と知っている。13.21.5.1453 7 2017… 全ては究極的には大きな 1つの 家族である。 経験について洞察すること
でこのように教えてくれる。人が真理について洞察したとき、彼はやがて「内
なる神」として、全てが1つの存在----1つの身体の腕や足のように----であ
ることを学ぶであろう。この結論は、人は自身の幸せを考えると同様に他の
幸せを考えなければならないということである…6.9.3.395, 巻4 7 2017… 高位の自己を持っているという考え、彼が魂を持っているという確信は、
彼の持つ「小さな存在」を大きな神秘的な力で打ち破り、長い暗いトンネル
の続く怖い旅の後に、輝かしい光に到達したように感ずる…14.22.8.107, 巻5 7 2017… 「内なる神」より恩寵を引き出すためには、求道者は自己中心の考え方を
離れ、その正反対の考え方----「内なる神」に没入することが必要である。し
ばらくの間、「聖なるもの」のみ、高位の力の無限性と永遠性のみを思考し、
個人的成長については全て忘れてしまうことである。15.23.4.70, 巻6 7 2017人にはそれぞれしなければならない具体的な仕事がある----彼自身にしかない
ユニークさを表すことでもある。それは他の誰にも頼むことは出来ない。そ
れを実行するに当たり、その機会を正しく使用するならば、個人を超え、自
身のエゴや全ての人のエゴを超えた偉大なる「無比なるもの」に導かれるこ
ともあり得る。2.1.5.197 7 2017… 私はアジアの古の聖者たちがずっと以前に述べていたことを述べようと努
めてみた、それは「内なる神」の性格を、そして宇宙の究極の真理を直接悟
る能力を開発することは可能であり、それは人類にとって可能な最高の直感
であるということである…13.20.4.152, 巻8 7 2017どのような方法で、またどのような手段で、人は真理を発見できるのだろう
か。尊崇の念に包まれながらも神秘思想と哲学を突き抜けるような十分な意
欲と智恵に溢れた願望によってである。3.2.5.679 7 2017「長期修行」信奉者の基本的考えは、何回もの生を経て性格を浄化し、智恵
を完成させて、目標は段階的に到達しなければならないということである。
反対に「短期修行」の基本的考えは、目標は不断に続く瞑想によってのみ、
突然達成することができるということである。15.23.5.9410 7 2017この短い間、エゴから離れ、愛おしく「内なる神」に意識を固定するだけの
ことである。何故なら、思考がエゴだけに囚われたとき、小さな自己という
制約に限定され、個人的出来事や興味、問題などの狭い 領域に閉じ込められ
た囚人のようになってしまうからである。これを脱するのが意識の転換なの
である。だが、変化には強い動機と力が必要である。その力と動機は愛と信
仰が一体化された時----愛、渇仰、「内なる神」を慕って止まない気持ち、そ
して心の深奥にいつも生き、存在しているそのものへの信仰として一体化さ
れた時、現れる。4.4.2.28711 7 2017人が発見できる多くの形態の仕事の全ての中で、また実際の機能が表現でき
る様々な方法の全ての中で、幻想より真実に人々を導くこと、これ以上の高
貴なことはない。従って彼の仕事について大きな尊敬を抱くことも、彼に多
大な敬愛を与えることも誤ってはいない。2.1.6.65912 7 2017瞑想は、少なくともその目標に到達するのであれば、深く、そして暖かい感
情の伴わないそれは、より長い時間がかかる。4.4.2.28213 7 2017病にかかった聖者が痛みを感じないと信じるのは正しくない。病気はそこに
あるし、痛みも感ずるが、それより大きな平和な意識に包まれているのであ
る。それが病気を観察しているのである。こうして痛みは軽減することが出
来るが、それが無くなってしまうのではない。15.24.2.15014 7 2017夜の眠りより目覚めた初めの幾晩かは、私たちは天国のような思考のない状
態を経験する。または、それほど高揚感の伴うものでない場合、指針を与え
てくれ、何をするかを教えて、誤った決断に対して警告を発し、あるいは、
未来を予告してくれる考えを受取ることが出来る。15.23.6.7815 7 2017私たちは祈りを義務としなければならない。何故なら、人間としての生活で
も霊的な求道でも、聖なる支援を求め、それを得ることなく、成功を実現す
ることはないからである。12.18.2.1716 7 2017テーブルランプから流れて来る光は電気が存在していることを証明している。
これらの高揚した瞬間に心に流れ来る光は「魂」が存在していることを証明
している。14.22.4.15517 7 2017連続し、リズムがあり、自然で、容易そして気持ちの良い活動を人間は1つ
している。それは呼吸である。今、述べた四つの属性を持つ一種の瞑想を齎
すような簡単な実践を結合することにより、その存在を利用することが出来
る。その実践とは息を吸う時に1つの言葉を静かに唱え、吐く時にもう1つ
の言葉を唱えるだけのことである。2つの言葉は、それを繋げることによ
り、適切な霊的な文言になるか、名前になるものが良い。1つの例としては
「神は存在する」である。4.4.6.10518 7 2017心を浄化し、精神を静めることは「内なる神」に到達する必要な条件である。
これらは「長期修行」に属している。15.23.4.419 7 2017知力がその脆弱さの故に出来ないものでも、情熱あふれる感情は、その力故
に可能とする。12.18.1.5720 7 2017私たちの存在についての真実の意識を偽るエゴイズムや私たちの現実につい
ての真実の意識を歪める物質主義は、私たち自身の努力では治癒できない病
である。他の人か、または私たち自身に具現化している高位の力に、信頼と
愛を込めて懇願することによって、この催眠術のような魔力を究極的に破壊
することが出来るのである。しかしながら、その治癒を初めに促すのは私た
ちの努力である。2.1.5.7821 7 2017イエスが「叩けよ、さらば開かれん」と言ったとき、彼はあなた自身の内部
の扉を叩くことを意味していた…12.17.3.96, 巻22 7 2017思考はそれが無くなるまで少なくしていかなければならない。だが、意志か
ら出発した意図的行為では、真実の瞑想は齎されない。彼が出来る全ては、
受身にして忍耐強く待ち----渇望、愛、熟視などの正しい態度を続け、如何な
る種類の緊張もほぐすことである。15.23.7.24523 7 2017… 私たちの悪業は他人のためばかりではなく、主に私たちのために悲しみを
作り出す。私たちの善行は幸運を招き寄せる。私たちは、道徳的責任につい
ての絶妙な法則の働きから逃れることは出来ないのである…6.9.3.29, 巻24 7 2017悟りを垣間見ることは、永遠に続く「悟り」と同様に大きな主題である。そ
れは意識の内部ではあっても人間の意志の届かないところで起きる現象であ
る。14.22.5.8325 7 2017マントラを続けて唱えているとやがてそれは霊的力を覚醒する道に通じる。
彼の内部深くに隠されていたそれらの力は自然と呼び起こされ、彼の心を飽
和し、遂にはエゴを圧倒してしまう。4.4.6.3326 7 2017エゴの感情が無くなると、献身的崇拝の感情と神秘的交信も終わりを告げる。
何故ならそれらも二面性を前提としているからであり、それらの前提が消滅
すると、1つの実体の意識だけが残る—それが「内なる神」である。15.23.7.12827 7 2017全ての生ある物は「1つの無限の生命の力」という存在の原理を具現してい
る。それは個人的な所有物ではないが、人間の個人的アクセスに対しては開
放されており、彼の祈りに対しては答えてくれる----彼がそれとのコンタクト
を樹立し、彼のアプローチが正しければという条件で----しかし、その答えは
それ自身の方法と時間により来なければならない。12.18.1.128 7 2017この体験での神秘さと平和は理解を超える。それは知性では伝えることが出
来ない。何故ならそれと一緒になることで私たちは合一を獲得するが、人格
は失う、しかしアイデンティティは維持されるのである。15.23.8.18029 7 2017肉のない食事はほとんど全ての人に実際的な利点を与える。高位の目的に生
きる理想主義者には、さらに与えるものがある。道徳的観点のみから考えて
も、他人や動物の苦しみに対する冷淡さを軽減し、シュバイツァーが呼んだ
「生命への尊敬の念」を増やしてくれるのである。4.5.3.830 7 2017究極的には彼はそこから個人の生活を、客観的事物として観察できる清純な
雰囲気まで昇らなければならない。そして、さらに困難なことに、その高み
で感じた智恵と善意を自己の人格を使用して表現できるような生き方をしな
ければならないのである…3.2.5.59, 巻31 7 2017
The notebooks are copyright © 1984-1989 The Paul Brunton Philosophic Foundation
This site is run by Paul Brunton-stiftelsen · info@paulbruntondailynote.se