毎日
初めに感ずる驚きの一つはこのような広大な範囲に渡る知識と経験が私たち
人間に存在し、そして私たちのほとんどがそれについて知らないということ
である。13.20.1.2931 7 2016如何なる瞬間でも人は、人生における精神的、物質的経験とその全人格と性
格に従い、またそれらの結果により、考え、行動する。これは彼が現在知っ
ている地球上の短い現世の人世に留めることは出来ない、何故ならそれだけ
では彼の多くの性格や性癖については説明することが出来ないからである。
それらについては彼の前世の全ての人生を含めなければならない。6.9.2.202 7 2016私たちが私たちの身体のことを知っているという事実は、私たちが私たちの
魂を知ることが出来るという保証である。何故なら私たちの持つ、知るとい
う原理は魂自体から生じているからである。それを発見するためには私たち
は 私たちの心について十分に深く、真剣に探求すれば良いだけである。14.22.5.143 7 2016恩寵が単に人間の努力によってのみ生じ、人の刻苦精励によって獲得しなけ
ればならないというのであれば、それは最早恩寵ではない。それは高位の力
による不思議な意志によるのである。だからと言って高位の存在の気まぐれ
によって訪れると言うのではない。人が十分に受動的姿勢を持ち、「静かに
しなさい、そして自身が神であることを知りなさい」という金言を実践して
いる時、恩寵を引き寄せる何かをしているのである。12.18.5.1504 7 2016「存在する」という叙述は「ある時間の」あるいは「永遠に」という意味を
含んでいる。大抵の人はこの意味を「ある時間における」という意味に限定
してしまっている。しかし、少し修行の進んだ人は、ある人たちによってそ
れより深い真理が悟られたことを知っている。13.19.2.675 7 2016「空」とは全ての精神活動と創造が停止していることを意味する。それは心
の思考や想念が完全に無くなり、身体についての認識や頭脳の概念が消えて
いることを意味する。16.28.2.1156 7 2016自分の国で出来ないどんなことがインドでは出来るのか。欲望、感情、エゴ
に対してのある国での闘いは他の国でも同様に起きる。身体を他の場所に移
すことでそれから逃れることは出来ない。あなたが成し遂げなければならな
いことは自身の内部のことである...10.15.1.83, 巻7 7 2016「内なる神」は自身の内部での深く平和な状態で初めに、そして最後に感じ
られる。東洋で、また初期のギリシャ秘儀で交わされた挨拶、「平穏があな
たとともにありますように」の奥深い意味である。15.24.4.128 7 2016現世での行動は来世に生まれる時の身体と環境に影響を与える、彼の思考と
感情もそうである。人生から原因を紡ぎ、小学生のように成績が良くなった
り悪くなったりする。6.9.2.1019 7 2016「内なる神」を「ある存在」として観想するのも高位の瞑想と言える。しか
し、それは間欠的なものであり、二つ目には不十分なものであり、三番目に
は不完全なものであるために、最高のものではない。最高のものは、最終的、
永遠に、そして完全に「内なる神」に同化し没入している。13.20.4.21110 7 2016毎日の瞑想を愛することが出来るようになるまで続けること、それが成功へ
の道である。4.4.2.32411 7 2016イエスの「自身の生命を救済しようとする者は、それを失うであろう」との
宣言は妥協がない。それは永遠の真理であり、普遍的真理である... それは
「内なる神」がその美しさ、荘厳さ、平和と、その力のままにその姿を現す
前には、彼らがあまりにも捉われているバランスを欠いた低次な活動を否定
すべきだという断固とした条件である...6.8.4.230, 巻12 7 2016これらの実践を続けることは、心を訓練し、初めは難しく、後には容易にな
る、瞑想状態に入る習慣をつくるために、不可欠なものである。4.4.1.9813 7 2016どのような候補者であってもその低き入り口で身を屈め、屈服したことを示
さなければ、王の部屋に入り、そこで「崇高なる秘儀」を受けることは出来
ない。何故なら誰人たりともそのエゴイズムと動物的性格を放棄することな
くして、超人の境涯を得ることは出来ないからである。12.18.4.8814 7 2016人はその生存からの執着を断ち切るため、事物や、人または性癖を消滅させ
ることは必ずしも必要ではないし、極めて重要なことでもない。肝要なこと
は、その生存を感情的に距離を置いて見るということである。3.2.7.815 7 2016大宇宙は来たり、去り、行き、また戻る、このサイクルを繰り返している。
人も、共通して体験しているという幻想を叩き壊し、その全て、 そして自ら
の背景にある真理に到達するまで同様のことを繰り返す。13.19.1.116 7 2016最高の真理が私たちの前にその栄光ある全貌を余すところなく見せたとして
も、それに対する準備またはそれを受けるための精神の浄化がなかったとし
たら、それを認識し、----ましてそれを理解する----ことは不可能であろう...6.8.4.87, 巻17 7 2016真理を高度に理解する段階と、瞑想的覚知を受ける偉大なる能力は、修行者
がそれぞれの真理への試練を経過する毎に、自ずと開けてくる。これらの試
練は低い段階では、肉体的性癖、欲情や欲求や欲望を訓練する意志と、高度
な段階では思考と感情を真理に放擲する意志から成り立っている。総合的に
は動物的欲望とエゴから離れるまで段階を踏むことになる。2.1.5.31718 7 2016瞑想を始めることを嫌がること、そして始めた後も長くそれを続けられない
理由の一つは、世間的な事柄について多忙過ぎることであり、あるいは個人
的な欲求についての執着心である。このことが哲学の修行の一部であり、抽
象的な形而上学的、そして超個人的なテーマについて学習する理由である。13.20.3.12119 7 2016彼は全宇宙を絶対者が具現化したものと見る。次に、彼は無意識に、そして
自発的に、自身----心と身体、感情と意志----をその考えと調和させてしま
う。16.26.1.22220 7 2016「アブラハムの前に私がいる」この言葉は高度なメンタリズムの表現である。
イエスは「私がいた」とは言っていないのに注意して欲しい。このことは個
人を超え、個々に分けることの出来ない、「心」がアブラハムの生まれる以
前に存在していたことを意味する。「私がいる」とは永遠の「唯一の絶対者」
を指し示し、それは過去にも現在にも、また未来にも個人としては存在しな
い。16.28.1.8721 7 2016絶対者の「存在」とその「力」が自らの内にあることを出来るだけ、続けて、
また繰り返し想うことは、その平易さからは想像されることのない大きな結
果を齎す実践である。15.23.6.15122 7 2016記憶は私たちのため、それによって生きる枠組みや伝統、価値観、習慣を生
成する。それは強固な権威づけとなる。しかしながらそれは同時に私たちを
縛り付け、私たちの自由を否定する暴君ともなる----真理を発見するのを妨
げ、真実への障壁を作ってしまうのに効果を発揮してしまうのだ。人はこの
ように誰でもエゴによって色付けされた過去を思い出してしまうが、聖者の
み、それを忘れ、全ての枠組みを消滅することが出来る。6.8.4.10123 7 2016連続して「内なる神」にエゴを放擲し、誠実にそして賢明に哲学的理想に出
来る限り従って生きる人は、高位の存在と力について眼に見える証左と素晴
らしき結果をその人生に受け取る。彼らは神を信頼することが出来る、何故
ならそれは盲目の信頼ではないからである。12.18.4.19224 7 2016聖なる魂を発見した人は、その特別な使命の一部として聖なる命令を受けな
い限りは、その事実を公にすることはない。15.24.4.19925 7 2016エゴは道を妨害しようとする、その存在は「内なる神」の存在についての意
識を無効にしてしまう。しかしそうする必要はないのである。自己とは何か
について 正しくそして深く理解すること、個人の意識と宇宙意識を適切に調
整することにより、悟りは開かれるのである。6.8.4.36926 7 2016哲学の全てを大衆に素早くそして容易に広めることは出来ない。ただし、だ
からと言って彼らに対して何もしないという言い逃れとしてその理由を使用
することは出来ない。13.20.2.4927 7 2016私は意識のある存在として身体的感覚と精神的な考えに気づいている。しか
し、そのような気づきを可能にする意識そのものは感覚や考え以前に存在し
ており、このことは新生児にも死んでいく人々に取っても真実である。これ
は身体を解剖する唯物論者が認識できないことである...13.21.2.175, 巻28 7 2016この修行に入るため「恩寵」からの初めての誘いを受けない人は一人もいな
い。全ての人はその可能性を持ち、最終的には全ての人がそれを受け入れる。
しかしながら、私たちの周りには世間的な経験を十分に積むまで、また挫折
や失望を十分すぎるほど経験し、立ち止まり、謙虚になるまでは、その準備
が出来ない人で満ち溢れている。12.18.5.16329 7 2016思考を放棄すること、それと共にそれを超越する意志なくしては「純粋意識」
を発見することは出来ない。15.23.7.18030 7 2016彼は「内なる神」を思い出す訓練を (1) 何らの努力することなく容易になる
まで (2) この内的集中が行動の中に習慣づけられるようになるまで (3) 自然と
思い出すことが出来るようになるまで (4) この実践が止まることのない動き
として堅固かつ成功裡に確立されまで、続けるべきである...15.23.6.176, 巻31 7 2016
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