毎日
長時間が必要なヨガの修行よりも効果があるのは今、この瞬間における自己の神性を強烈に想
う努力である。15.23.6.1751 7 2013この静謐より抜け出すときいつも必要なのは意識的な気付きである。これは自然に生まれるも
のではなく、自己訓練と自己観察による。釈尊は「注意深さ」と言っている…15.23.6.234, 巻2 7 2013人は自らを限定しているのではないか、また終日、他の普通の人と同様に話したり、行動した
り今の自分であると思っている限り、それ以外の人にはならないということを学び始める。そ
うではなく、高いレベルで一日を開始し、自分は深奥では神性であると考え、そのレベルを時
間の経過に関わらず維持したとしたら、神性を身近なものとして考え始める。この方法は自己
の意識や性格、また出来事に対して効果を発揮する現実的な方法である。15.23.6.1283 7 2013「啓示」は瞬間で終わってしまう。その満足感もうつろいやすい。しかしそれは世間の不安定
で儚い喜びが絶対にもたらすことが出来ない希望と天啓の影響を残してくれる。14.22.7.904 7 2013私たちにとって第三の道はない。世界は急速に新しい時代に入ろうとしている。私たちは消え
去りつつある時代の遺物にすがっていくか、これから来る時代に邂逅するか、どちらかである。
私たちが選択しなければならないのだ…9.13.4.214, 巻5 7 2013人は誤った考えや愚かな考えを忍耐強く超克していく度に内的強さを加えていく。また不遇に
会いその教訓について冷静かつ公平な判断をし、それに勇敢に立ち向かうたびに内なる智慧を
強めていく。こうして賢明にそして自己批判しながら自己放擲していく人はやがて物質的安心
感と内的充実感を持ち、恐れず希望に満ちて前進することが出来る。何故ならその人は今や
「内なる神」の豊かな愛による庇護を確信しているからである…12.18.4.33, 巻6 7 2013「内なる神」の存在を身近に感じたい人にとって自己の心と精神以外に求めるところはどこに
もない、また「師」になってくれる人を探すため遠い異国の地を訪れる必要もないのであ
る…11.16.7.20, 巻7 7 2013危機を「内なる神」に預けよう。真実の私は「内なる神」と同一なのだと信じ、頼りないエゴ
には見切りをつけよう。そうすれば貴方は「内なる神」と同様に確実で安心であるという視点
に立てる。最終にして最高の立場を保持しよう。危険などという考えを頭から捨てよう。「内
なる神」には危険など存在しないのだ。9.13.2.2228 7 2013若い人たちの直感力に触ろうともせず、磨こうともせず、また使おうともしないで、かれらを
教育する意味があるのだろうか。9.13.2.6399 7 2013「短期修行」の修行者は目的達成のため直接的に進んでいく。思考を統御しながらゆっくり進
んでいくのではなく、この瞬間に、聖にして「内なる神」は胸奥に存在しており、遠い将来に
そこに到達するのではなく、今、現在、自身の中に住んでいるという事実を思い起こすことを
求めていく。その事実を理解し、その想いを持ち続ければ続けるほど、理解はさらに深まり、
大きな静けさを感じるようになる。その結果、思考は自動的に静まる。15.23.1.910 7 2013熱意は新鮮であり、心が素直である若い人たちは特にこの教えを身に付けることが肝要である。
このことにより、将来における最高の基盤をつくるだけではなく、他者に対する最大の奉仕を
することが可能となる。9.13.3.211 7 2013自分の身体に嫌気がさし、また自分自身にも嫌気がさしている虚弱な老人は、自己の身体とは
異なる偉大なる何かと同一にならない限り、そこから抜け出す道はない。9.13.3.12612 7 2013神秘体験が本当の意味で実現したとき、人類の行く手に静かに横たわる進化した意識の状態に
つき、独力で知ることができる稀有の機会が訪れる。14.22.4.5113 7 2013…音楽、芸術、詩、風景などから、高まり、高揚、畏怖、あるいは満足感を得るとき、多くの
人が「啓示」を受ける。しかしながら「短期修行」の道にいる者のみが、その真実の姿を認識
する。15.23.1.114, 巻14 7 2013ヨガの最も価値ある形態は念いを続けることである。その対象は神秘的体験でも、直感または
何かの考えでも良い。その念いによって世俗の生活にそれを超越した雰囲気を注入する努力を
することが大切なのである。15.23.6.21215 7 2013… 外的には全てが異なる、しかし意識の最深部では全ては同じである。
6.8.1.156, 巻16 7 2013「短期修行」では次の方法を使用する (a) 思考: 真理の本質について形而上学的に考究する。(b)
実践: 俗世間の日常生活で絶えず真実を想起する。(c) 瞑想: 静謐の中で真理の思念に自己を放擲
する。人はこれらの三つの活動をしているとき、エゴに関わっていないことに気付くであろう。
「長期修行」のように自分のことを思ったり、想起したり、熟考したりすることはないのであ
る。15.23.1.9817 7 2013この瞬間、この場所で、過去や未来を解き放つこと、そして混ざり気があり、最終的には解放
しなければならない意識ではなく、純粋なる意識そのものを求める。そのときこそ、人は自己
の真実の姿を見ることができ、遠い未来ではなく、この瞬間に真実の悟りを感得することがで
きる。15.24.3.25618 7 2013短く、官能的で、そしてつかの間の喜びは真の平静や平和と交換する価値はない、それが一生
の間で1千倍に増幅されたとしても。15.24.2.5219 7 2013「私は何なの」に対する答えは「聖なる霊魂」である。この霊魂とは神に関連し、神に根差し
ている。しかし、だからと言って私たちが神と同じことにはならない。そのように主張する人
は言葉の使い方が不注意過ぎる。6.8.1.3820 7 2013…「啓示」により人は新しい展望の高みに昇る。だが困難なことはその展望を維持することだ。
過去からの誤った考え方は速くも主張が始まり、その人を圧倒して元の姿に戻してしまう。だ
から絶えざる洞察、内省的学習、そして神秘的瞑想を繰り返すことがこれらの習癖を弱め、内
的強さを生成するために必要である。このことによって過去からの強力な侵入者に対抗して高
き展望を固く保持することが可能となる。14.22.3.4, 巻21 7 2013人の願望が燃えるが如く強くなったとき、「恩寵」は遠くない徴候である。
12.18.5.29622 7 2013「短期修行」は霊的喜悦、真理、そして強さという祝福への最速の道を提供してくれる。これ
らは「内なる神」に存在しており、また「内なる神」は私たち全てに存在しているが故に、私
たちはこれらの祝福を直接的に我がものである宣言することも可能である。この単純な行為が
人を回転させ、自己依存を脱皮し、真実の自己の生命や存在、真実の摂理や幸福が発散する
元々の「源泉」を見ることを促す。世間が無理強いし、これらに反する全ての考えを捨て、そ
の考えに関わるエゴの感情や欲求を否定し、その「源泉」に人は「休むことなく祈る」。即ち、
人は、解放感にあふれ、太陽のような光輝くものが広がるのを感じるようになるまで、深奥を
目指して集中を続ける。15.23.1.6023 7 2013人の根本的義務の一つは動物的自己とエゴの横暴からの脱皮である。二つ目は霊的自己を覚醒
することである。2.1.5.10324 7 2013肉体や思考、感情によってエゴはそれ自体で成り立っているようである。たが、「私」という
感情はどこから来るのか。この質問に答える方法は一つしかない。瞑想である。瞑想によりこ
の三つを掘り下げ残滓に入り込むと、そこには何もない、あるのは「存在」感だけである。そ
してこれこそ「私」という意識の源泉なのだ。残念なことにこの源泉は通常は外に表れない。
だから私たちはその投影に過ぎない、エゴだけを頼りにして生きているのである。本当は偉大
なのに私たちは矮小な自分に満足してしまっているのだ。6.8.2.625 7 2013この絶えず思い出すということは自己訓練の一つとなる。人の心は習慣的にも性格的にもエゴ
とともにいることに慣れている。それを引きずり出すこと、そして高位の自己を思い、そこに
居続けることが必要なのである。15.23.6.20826 7 2013「内なる神」を思い描く「短期修行」の道にいるならば人はもっと喜びに溢れた態度を涵養し
なければいけない。このことを絶えず実践することにより、人は「内なる神」の栄光を思い出
すのである。15.23.1.10627 7 2013全て想ったことは意識の中で思考となる。このことは事物や出来事、場所にも適用されるだけ
でなく、人にも適用される。人の中には過去に私だった「私」を記憶する自分も入る。このこ
とは私が私自身と呼ぶ固有の人格はどんなにそれが強靭で一貫性のあるものであっても過去の
思考となってしまう。しかし、過去も一度は現在だった。従って私は今でもその思考以外のも
のではない。ここで疑問が起きる。それは今もあり、普遍の、まったく同一の私に対して過去
に私が何をしたかということである。それは同一人物としての「私」ではないはずである、何
故ならその都度少しずつ違うからである。それが、そしてそれこそが「意識」としての「私」
なのである。6.8.2.328 7 2013恩寵についての何からの法則があるとしたら「内なる神」に対して私たちが愛を注ぎ、それに
よって恩寵を得るということだろう…12.18.5.209, 巻29 7 2013「宇宙意識」の創造的瞑想という行為により宇宙は存在するものとなった。私たちが宇宙とい
うこの世界を経験している限りにおいて、私たちは無意識的にこの行為に参加している。それ
は思考の世界であり、また思考という存在でもある。16.27.3.1930 7 2013遂に人は小さな子供のようになり、信仰に再び目覚めなければいけないことを発見した。しか
し今回は盲目的信仰ではなく、知的な信仰である。人はプライド、傲慢、知によるうぬぼれか
ら自由になり、永遠の「神秘」に跪かなければならない。自身のことや心のこと、人生の法則
や自然の摂理など学ぶことは多い。どれも拒否してはならない。知るだけでなく、信ずること
も必要である。そして遂には過去にどんなに収穫があったとしても、全ての主義を捨てなけれ
ばならない、そして自由なる身として考え、感じ、生きなければいけないのである。3.2.5.6031 7 2013
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