毎日
真理を知った人に説かれた文章が読まれるとき、鋭敏な人は、それは最早文
言を読んでいる以上であることを理解する。それは「究極の存在」から恩寵
を受けていることでもあるのだ。9.14.4.1361 6 2017「内なる神」は描かれたり、重さを計られたりする形を持たない、時間が計
られたりする動きをすることもなく、鼓膜に刻まれるような音を立てること
もない。14.22.3.2602 6 2017他人を認め、彼らの欠点を許し、それらを受け入れることを学ぶだけでは十
分でない。彼は自分に我慢することも、自らの欠点を受け入れることも学ば
なければならない。15.23.1.1083 6 2017自身の小さな個人のエゴにのみ依存して彼が出来ることは、「無限の力」を
借りた場合の一断面に過ぎない。14.22.3.1214 6 2017仮に彼の進化に必要であるとき、問題が起きてそれに悩み、または病気にな
り、そのため身体に執着が無くなるときがある。だとすれば、そのような運
命は自分で招いたというよりも、むしろそのニーズのためにそうなったと言
える。通常はそれが一致するのだが、いつもそうではないし、また必ずしも
そうだということでもない。そしてこのことは普通の人よりも修行に入って
いる人に多く起きる、何故なら修行に入っている人のほうが速やかな進化を
望み、または祈っているからである。6.9.3.2475 6 2017「絶対意識」を意識すること、「私」を探求し、その知る力の謎を知ること
が修行である。2.1.1.206 6 2017… 私たちは性格の一部としては動物であり、二番目の性格としては人間であ
り、三番目の性格としては時に天使でもある。これらが重なって1つの生き
物となっている。私たちは身体的感覚を通して私たちの身体について学ぶ。
私たちは私たちの思考を通して心の一部について学ぶ。私たちはさらに思考
しないこと、即ち直感により心の深い部分について学ぶ。16.26.4.54, 巻7 6 2017目標への道はエゴによって妨害される…
6.8.4.95, 巻8 6 2017恐らく悟りを開いた人が発見することで最も素晴らしいことは、無限の力よ
り彼が離れているということは現実にはあり得ず、幻想にしか過ぎず、また
「内なる神」より彼が離れているということは、想像の産物に過ぎず、事実
ではないということである…14.22.3.35, 巻9 6 2017「内なる神」と比較できる、そのようなものは無い。
14.22.3.25910 6 2017…祈りは懇願ではない、それは何よりも先ず、神に対する尊崇と愛を込めた
行為である。それが行われた後に、自身のことを願っても良い、勿論それは
主として物質的な物ではなく、霊的な物ではあるが…12.18.2.5, 巻11 6 2017求道者は、「長期修行」が求める十分な修行を積まないと「恩寵」の力に浴
すことはない。十分な修行があって初めて「短期修行」に入ることが可能で
あり、それに伴う「恩寵」の利益を受けることが出来る。15.23.4.4412 6 2017偉大な預言者の全ては他人を霊的に悟らせることが全ての人が従事出来る仕
事の中で最も重要であり、最も利益のあることを強調している…3.2.8.64, 巻13 6 2017自身のエゴやその動機に習慣的に疑問を持つことは、そうしないことより、
より慎重な姿勢である。6.8.4.16414 6 2017… 謙虚さは、この道の第一歩である。人生の偉大なる神秘に遭遇した時、私
たちが知っていることは殆ど無いということを私たちは理解するべきである
…12.18.3.46, 巻15 6 2017… 心はそれ自身に深く潜行し、それ自身に没入しているので、外の世界は完
全に消滅している。あたり一帯が偉大なる存在に包まれている感覚は、強
く、慈愛に溢れている。この癒される存在に完全に休息しているという感情
がそこにはある…15.23.7.11, 巻16 6 2017この圧倒する経験を経た人たちには、魂の存在を信ずるのに何の議論も要ら
ない。彼らは、彼らが魂であるのを知っているのだ。14.22.3.43817 6 2017あなたが欠点のない、効果のある祈りをしたいと言うのなら、ソクラテスが
習慣的に使用したという「私にとって最善の物を与えてください」というも
の、または何人かの異教徒が使用したという「良き物のみ愛し、求め、得さ
せてくれますか」という祈りより良いものがあるだろうか。12.18.2.4718 6 2017「真理」の発見が、「私は誰か」の答を発見することだとしたら、「私」以
上の「導師」がいるのだろうか。2.1.6.839, 巻19 6 2017… 自身の使用のため適切な定型句を選ぶ際、修行者は心がけなければいけな
いことは思い出すことだけではなく、愛おしく思い出すことである。このよ
うに繰り返し唱えるマントラは「内なる神」を思い出すだけでなく、そこに
自身を惹きつけることにもなるのである。従って、それは献身愛を高め、自
身の性格を気高くするものでなければならない。それは霊的な思考に満たさ
れ、崇高な愛情に溢れていなければならないのである…4.4.6.4, 巻20 6 2017これらの啓示はまれにしか訪れない、何故なら心の混乱は静めるのが難しい
からである----「内なる神」の恩寵のみそれが可能である。14.22.5.8921 6 2017「修行」の隠された形而上学的意義は何だろうか。それは人間の中に存在す
る無限の自己は、外界の有限で、不完全な人生では適切な自己表現は出来な
いことを発見することである。エゴは、いろいろ試みる、出来ることはやる
かも知れない、だが、至福、智恵、平静、完成、これらは「内なる神」の属
性であって、最終的には、全て達成することが出来ない。外の世界を求め、
それを把握することを止め、自己の内部に退避する以外に選択する手段はな
い。 奥深く沈潜することによって、止まることを知らない満足感への旅が続
くのである。これが「内なる神」を発見する道に繋がる修行である。2.1.1.3922 6 2017前世から人が引き継ぐ特質や性格は、自己が「私」として知る人格の全てを
構成する。6.9.2.3323 6 2017芸術を通して、人は「内なる神」に発見する美、秩序、知性などの特質や属
性のイメージを創造することが出来る。これらのイメージは、音楽、絵画、
または彫刻や詩歌という媒体を通して、その源泉に触れる雰囲気、インスピ
レーションや思考を、鑑賞する人に齎してくれる。9.14.1.6824 6 2017彼の心を集中している思考や事物だけがそこにあり、彼の瞑想している意識
が無くなった時、三段階目の深い瞑想状態に入ったと言える。この残りの意
識が「内なる神」そのものになり、自己を超越し、「内なる神」の中に入る
ことによってその意識さえ無くなった時、この段階も終る。15.23.7.9325 6 2017静寂は、感覚と思考、身体と考える力が超越された兆候であり、また「内な
る神」の存在についての象徴でもある。14.22.3.21326 6 2017私たちが連続する思考を監視し、否定的考えを捨て、積極的な考えと高位の
法に対する絶対的信仰を涵養することにより、最終的には物質的生活を向上
する方法を開始していることになる。6.9.3.16927 6 2017宇宙には秩序だった構築物があり、そこに住む生き物には秩序だった様式が
存在する。それら以外の全てが法則により統御されているとしたら、人類の
霊的成長は必要があるのだろうか。16.26.4.9828 6 2017自身の生活における外的イベントの何らかのパターンの中でカルマを原因と
した結果を識別するため、理性と直感を合わせたもの、即ち知性を使用しな
ければならない。6.9.3.17129 6 2017エゴのない状態が初めに現出するのは深い瞑想の時だろう。二段階目は、現
実の生活の中で瞬間的に体験されるであろう、三段階目で最終段階は、生活
の中で確立された時である。14.22.8.11130 6 2017
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