毎日
遅延することは危険である。「後で」は遅きに失する...
2.1.2.425, 巻1 6 2014霊的治癒はごくわずかな人に与えられたもので他の人にはその力を得ること
は出来ない。しかしながら、それは隠れたものであり、ある一定の霊的成長
があると初めて現れるものである。7.10.5.872 6 2014彼が欲求を抑え、自己の考えを鎮めたとき、また自己の意志を抑え、エゴを
鎮めたとき、「聖なる精神」を自己の意識に招きよせるチャネルとなること
が出来る。 そのときは彼の心に邪な感情が入ることはなく、邪な考えが彼
の心をよぎることもなく、また過去の悪業によって起こる結果ですら彼の平
静を妨げることはない。13.20.5.483 6 2014何かの機会に予測も出来ないような形で大きなリラックス感、緊張感からの
解放や心配事からの解放などを感じることがあったなら、全ての注意力を傾
けてみる価値がある。それらは周到に把握すべきで、それを見逃したり、無
くしたりするべきではない。そのような感情は育み、大切にし、発展させる
べきである。それはもしかして自身の本当の存在を知らせるため、高位の存
在からの静かなる声であるかも知れないからである。3.3.3.654 6 2014しかしながら、そのような満足感のある静謐は、彼が他人から多くを期待せ
ず、人生に対しても多くを要求せず、些細なことに囚われないという状態で
ないと維持することは出来ない。15.24.2.635 6 2014修行のそれぞれ重要な段階で修行者には、ある選択が待ち受けている。その
動機や強さ、成果が試されるような環境に直面しなければならないだろう。
この定期的な試練は決して逃れたり、回避することは出来ず、またときには
試練だとさえ認められないようなときもある。誘惑が魅惑的な色彩でカモフ
ラージュされているときもある。にも拘わらず、これらの試練に対する修行
者の行為がその後、上昇し、前進するか、あるいは後退して苦痛と浄化に陥
るかを決定する。3.2.3.1576 6 2014... 洞察力を発達させた人々は、外観を見ているときでも全ての重要な事を
見ている。何故なら彼らは全てを1つと見るからである。それはあたかも夢
を見ている人が夢を見ていることを知っていて、夢を体験している間、全て
のシーンと登場人物が1つで同一のもの---つまり心---に過ぎないというこ
とを理解しているのと同様である。13.21.3.24, 巻7 6 2014人は自身も含め宇宙の全てが見えない力より誕生したということを知るとき
が来る。しかしながら動物や植物にはこのような知識を得ることがない。か
くて私たちは進化の意味を知り、何故それが必要なのかを知るのである。2.1.1.1258 6 2014「短期修行」は恩寵を得るのに何故「長期修行」より良い方法なのだろうか。
エゴに占拠されていないというのも理由の一つだが、いつも「内なる神」を
想い出していることもその理由である。「短期修行」は愛を与える心と愛を
受けるのに相応しい心により、その想いを実行している。そして「内なる
神」を一日中思っている。この結果、恩寵がいつも輝いている源泉に近づく
だけでなく、愛をもってその源泉を想起することにより、恩寵を繰り返し招
きよせているのである。15.23.6.1499 6 2014人はその小さなエゴに閉じ込められている。牢屋にいるのと同様なのにそれ
を知ることはない。従って自由ということについては質問しようともしない
し、まして求めることはない。6.8.4.12810 6 2014厭わず待とうとしない人は修行で多くを得ることは出来ない。瞑想のときだ
けではない---もっともそれが一番大きいが---人格を浄化し、気高くすると
きにもそれは必要である。3.2.3.17511 6 2014「内なる言葉」は、その意味は極めて合理的であるが、理性では聞くことが
出来ない。それは他の全ての通常の文言のように知性にはまったく関連して
いない。それは心で受け取られ、高まり、深く感じられる。14.22.2.14212 6 2014彼の注意力が深部に行くに従い、世間は遠くになり、やがて消えてしまう。
そのときこそ、今まで知ることが出来なかった「魂」とその平和を知ること
が出来るのである。15.23.7.6613 6 2014実現しなかった全ての欲望によって死後、私たちは地球にまた引き戻される。
6.9.1.6914 6 2014現代社会は、やがて悟りを開いた宗教的預言者によって古の時代に説かれた
四大宗教の教説が2足す2は4が正しいのと同様に文字通り正しいという事実
に気づくであろう。また、言葉にはできない力そのものである、神は生まれ
ることもなく、死ぬこともない。また悪業は報いを受けること、さらに人は
自己制御の道徳的義務と祈りと瞑想を定期的に実行することを要請されてい
ること...これらの真実はどのような意見、提案または想像にも関係なく、
「生命」そのものに固有のものとして、いつも現存していることも。12.17.1.16, 巻15 6 2014... 「内なる神」は、人が「内なる神」を誰よりも、何事よりも第一とする
ことを底知れぬ忍耐で待っている。そして魂への欲求が休むことなく続けら
れるときが来ること、また聖なる物への愛が他の何物への愛より長く続き、
大きな物となるときが来ることを待っている。そして人がこの世界において
何物よりも「内なる神」を必要と実感したとき、「内なる神」は間違いなく
その姿を人に現わすであろう...12.18.1.76, 巻16 6 2014追憶--心によってその真実を思い起こすこと—はそれ自身、瞑想と同様であ
る。15.23.6.23217 6 2014時間を超越した真実を悟る1つの方法は「あたかも」の実践である。修行者
は最早修行者としての視点から自身を見ようとはせず、悟りを開いた人間と
しての視点から見る。彼は、考えと行動の上で達成しなけれはならない物は
何もないと仮定してしまうのである...15.23.6.115, 巻18 6 2014魂が人口の多い都市よりも孤独の修行場のほうが発見しやすいということで
はなく、より容易に、また早く発見される可能性があるということである。
そのほうがその存在がより明確になることだ。しかし、それを持続するため
にはまた都市に戻ってこなくてはならない。3.3.0.219 6 2014他人に対する愛が最大となり、それが他への理解、同情と寛容に発展したと
き、彼は個人的愛の最大の目的を垣間見ている、即ち彼の「心」を無にする
ことがいかに「宇宙的愛」に発展させ、結合するかということをである。5.6.2.11120 6 2014音楽であれ、風景であれ、美に敏感な者はレディメードの霊的道程を持って
いると言える。9.14.1.1021 6 2014個人的エゴと非個人的「内なる神」の両方の意識を同時に持つことは可能で
あり、幾ばくかの神秘家や芸術家によって断続的に実行され、あるいは哲学
者によって永久的に実行されてきた。13.20.4.10722 6 2014何かの物や人、出来事、欲求、熱情、気分、恐れ、騒ぎなどの考えに囚われ
ている心は、それらを全て超越する者に接触することには向いていない。先
ず心を落ち着け、空しくするべきである。4.4.7.6523 6 20141つの見方をすれば修行においてしてきたことは覆いを取ることとも言える。
思考や感情、静まらない外向性、決して終わることのないエゴイズムが、地
球を覆う厚い層のように、貴重なダイヤモンドを覆ってしまっている。それ
を貫通する瞑想が必要な理由である。3.2.4.12524 6 2014彼はこの微かな感情を追うことにより、それは自身の奥深き内部に誘引して
くれる。その方向に行けば行くほど、それは強くなっていく。15.23.7.22225 6 2014心はその究極の状態では自由で無限である。人間として私たちはその発見に
ついて初期の段階に過ぎない。私たちの旅を誤った道筋にしたり、私たちの
視界を遮るような妨害物を知らず知らずに設けたりするのは止めよう...2.1.3.151, 巻26 6 2014彼は他人の価値や経験を、自身が聖なる覚醒への成長のため、妨害となった
かそれを助ける物になったかによって、それらの価値を判断することを学ぶ。9.13.2.41727 6 2014経験に欠け、バランス感覚を持っていない者は霊的成長を恍惚状態や瞑想に
おける幻想によって計る。しかしながら経験があり、賢い者は人格の点から
判断する、即ち、高潔さ、円満なる人格、そして純粋さからである。13.20.3.10028 6 2014「内なる神」の神秘的な性格は知識人を間違いなく混乱させる。もし、私た
ちが、「内なる神」は二元性を統合するものであり、従って「内なる神」に
ついても二つの考え方があり、そのどちらも正しいという逆説的な事実を受
け入れたとき、良く理解できるのかも知れない。完全に俗世間を離れた絶対
で普遍的で聖なる存在があるとともに、歴史上人間のエゴと関わってきた不
完全な聖なる存在もあるのである。14.22.3.38629 6 2014人は神聖さを、教会、修行所、修道院あるいは寺院など、いずれかの場所で
発見する前に、自身の心の中で発見しなくてはならない。彼はどこかでその
本当の資質を発見する前に、それを絶えず考えるには愛さなければならず、
またはそれについてあまりにも考え過ぎるので愛し始めるようにならなけれ
ばならない。12.17.3.7330 6 2014
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