毎日
「内なる神」の声はイエス・キリストの声と同様に明らかである。「もう行きなさい、これ以
上罪を起こすのではない。汝の罪は既に許された」と。もう自己呵責と罪の意識を繰り返すこ
とによって落ち込むのはやめよう。15.23.5.2131 6 2013問題を本当に「高位の存在」に任せていたとしたら人はその問題から完全に解放されている。
よっていささかの負担もなくなっているはずである。負担を感じているとすれば人は自身を欺
いているのだ。上っ面の言葉だけで本当に任せているのではないのだ。12.18.4.482 6 2013自分の弱点や欠点に思い沈むのはエゴ中心の考え方であり、「内なる神」の力強さと調和を思
い起こすことで打ち消さなければならない。エゴから離れる実践をする必要があるのと同様に
修行者は「内なる神」との同一意識を持つ修行をすることが必要なのである。15.23.5.161, 巻3 6 2013放擲すべき共通とも言える最大の過ちはこの身体を本当の自己と信じてしまうことだ。実はそ
れは真実の自己の表れに過ぎず、チャンネルであり、また道具であり、媒体でしかないのであ
る。6.8.1.594 6 2013時間とは大変な財産のようである。そこに価値を投入しなければ何も出てこない。哲学を学ん
だり、自己完成のために使用すれば、最小でもある程度の平和や理解力を引き出すことが出来
る。最大なら真実を極めることが出来る。3.2.8.85 6 2013感覚や知力は私たちの持つ「無限の精神」に備わる根本的な力について何も語ってくれること
はない。しかしながら私たちは全き無知のまま放り出されているのではない。その現象面であ
る宇宙より「叡智」を垣間見ることが出来る。その発散された実体とも言える魂より「恩恵」
以上のものを垣間見ることが出来ることがある。「以上のもの」と何故私は言うか。何故なら
魂は私たちの本当の存在として感じることができるが、現象面は私たちの外であり、私たちと
離れているからである。16.28.2.976 6 2013現代へのメッセージは主要な三つのニーズを満たしていなくてならない。第一に人には聖なる
魂が宿るという理論。二つ目は祈りや瞑想、学習によりその魂と交流が出来るということ。三
つ目は因果の法則の現実であり、そのためより善き想いと正しい行いが必要であるということ
である。12.17.7.147 6 2013人がどの道からスタートしたとしても最終的にはこの道の入り口にたどり着く。エゴという幻
想を破壊し、エゴと同一視することより決別する道である。15.23.0.28 6 2013「内なる神」が人の意識を照らすときがある。滅多にはないが反対に人がその「神の意識」に
触れるときもある。もし出来ればその瞬間を長引かせること、出来ない場合はその記憶に住み
続け、それを思い起こすことは利益となる。「内なる神」を僅かでも実感出来そうなとき、ま
たその発現の可能性を僅かでも感じたとき、あなたは直ちにその感覚に身を包み、他の全てを
振り払わなければならない。14.22.5.114, 巻9 6 2013…「内なる神」を自分とは別の物として理解しているとき、それは瞑想の対象でしかない。そ
れでも良いかも知れないが、だがそれでは十分ではない。何故ならそれでは究極の実体ではな
く彫刻された偶像を崇敬しているに過ぎない。それよりさらに高きに登り、そこに到着したと
き、それは他者ではなく、本当の自分そのものなのである。4.4.5.73, 巻10 6 2013本当の「私」を知ることは初めにして最大のステップではない。実はそれは解放のステップが
始まるのである。6.8.4.37211 6 2013人は衝撃のようにその真理を見る。それはあなた自身の深奥に静かに横たわっている。それを
発見するためにどこかに旅をする必要も全くないし、真実を見たと思われる人を訪れ、その足
元にひれ伏する必要もない。どんなに聖なるものであろうと、優れていようと、書物すら読む
必要もないのである。また他の人や他の場所、あるいは書面がそれを与えることも出来ない、
人は自己の中に潜むそのベールを独力で外さなければならないのだ。自己の内部を見よと言っ
てくれる人もいるかも知れぬ、それによって探し回らなければならない手間は省けるかも知れ
ない。しかし、自己に対して必要な注意を自身で注がなければならないのである。その発見は
内なる静かなる自己の内部で自らしなければならないのである。15.23.1.7912 6 2013短期修行の仕事の一つは形而上学の学習である。それはエゴを超越する準備段階として、それ
が持つ幻想を暴露し、霊的であろうとも、事実からその考えを峻別するため、必要な作業であ
る。15.23.1.9913 6 2013哲学が疑問と驚きで始まったとしたら、それは心に残るどんな疑問であろうとそれを取り除き、
また驚きを聖なる崇敬へと転換して終わる。13.20.1.17814 6 2013…「長期修行」は集中力や注意力の実行、身体と心をリラックスすること、禁欲修行や自己制
御などヨガで通常、行われるものと同様である。これらはどこの教派でも教えている。しかし、
学習するべき規則集のようなものはない。基本的には思考を抑制し、身体、思考、感情や意志
をコントロールすることだ…15.23.5.56, 巻15 6 2013前世において「道」を修行した者は今世において少なくとも二回は霊感を受ける。人生の初期、
10代のときか、成人になろうとする寸前に受ける。それによって更なる道を目指すようにと啓
発してくれるのである。もう一回は人生の後半、今生が終わりかかる晩年である。これは「内
なる神」が恩寵として与えるものである。14.22.4.48, 巻16 6 2013「内なる神」あるいはそれについて思い続けること、様々な働き、その観念に全ての注意を注
ぐことにより、人は自身を忘れる。こうしてエゴを超越することが可能となる。このことが、
他の修行の準備が終了したら「短期修行」をするべきだという理由である。15.23.4.217 6 2013最もよく起こされる間違いは直感をつくろうとすることである。それは不可能である。直観と
は自然に来てくれるものである。だから何かの問題に集中しているとき、現れるのを期待すべ
きではない。それが現れるとしたらその問題から完全に解放されたときである。そのときでも
恩寵と言うべきである。来るかも知れないし、来ないかも知れない。14.22.1.7318 6 2013… これらの新しい考え方が種子となり、修行者の渇仰力を水とし、見える力と見えない力を太
陽の光として、実りのある理解と実践へと徐々に成長するであろう。善きカルマの働きにより、
これらへの関心は成長への全ての機会が備わる家族の一員としていつか生まれることを可能に
するであろう。2.1.2.416, 巻19 6 2013「短期修行」とは次の概念を意味する。知ろうと知るまいと人はいつも深奥の「静謐」にいる
こと、そしてこれまでも、これからも決してそこから離れてはいないことである。それは失敗
や絶望が続く人生のときでも真実である。15.23.1.820 6 2013人が夕方に座して西方水平線を見詰めるときの豊かな体験、太陽が視界から沈みかかるとき、
美と恩寵に心は広がる、それは「内なる神」を切望するのと同様だろう。3.3.7.2321 6 2013エゴを超越した意識を獲得することよりもエゴを捨てることを人が恐れる限り、人は暗闇に住
み続けることになる。12.18.4.1822 6 2013直感的洞察が訪れ、そして去るまでの間はあまりにも短い。だから人は油断なく瞬時にそれに
反応しなくてはならない。それを見落としてしまうと、もう一度、そこに戻るのは困難であり、
不確かになるだろう。14.22.1.10123 6 2013全ての事物が究極は一つであり、自分もまたその一つであるというこの体験は勿論神秘的体験
としてはよく知られている。取り分け自然神秘主義に限らずある種の宗教的神秘主義や哲学的
神秘主義でもよく知られている。この体験の初めの効果は、人は一人ではなく、また宇宙は人
の背後にあること、さらにまた人は心配事や悩み、そして恐れに圧倒されることはないという
こと、それらは全て小さな自己に付属しているという実感である。このような体験はまさにこ
のような心配事に対する素晴らしき反撃となる。14.22.6.36424 6 2013…エゴを完全に滅ぼすということはその一部である肉体を滅ぼすことを必ず意味し、他人より
峻別される独特な個人を除去することも意味する。これは出来ることではない。何が出来るか
と言えばエゴを高位の自己に仕えさせることであり、高位の意志に服従する道具とすることで
ある。6.8.1.197, 巻25 6 2013思考を絶つということは自己を絶つということになる。全き静寂の瞬間、人はその深奥の存在
の中でメッセージを聞く、ある国土より来たり、やがてそこに戻らなければならないと。3.2.3.29, 巻26 6 2013…初期のキリスト教徒の多くが神秘主義であり、ベジタリアンであったということは考慮する
価値がある。コンスタンチン帝(イエスキリストではない)により設立された公式キリスト教世
界より追放されなかったとしたら------その政治的野望に彼らは従わなかった----- 半分ほどのキ
リスト教世界の人たちが神秘思想を持ち、肉を食べていないのを私たちは見ることになっただ
ろう…4.5.3.3, 巻27 6 2013もし私たちが過去の記憶のしがらみと未来の結果についての懸念から離れることができたとき、
私たちはエゴから離れることが出来る…6.8.4.150, 巻28 6 2013なぜなら、私たちがこの瞬間聖なるものであり、永遠なるものであるとしたら(誰が人に与えら
れたあの神々しい啓示を否定できるだろうか)、私たちは今までもそうだったと言える。既に何
の助けも要らない完全なる存在である私たちがどうやって進化するのか。異質の存在が私たち
の周りで増殖し、私たちにまとわりつき高次の意識を隠してしまったと考えるほうが適切では
ないだろうか。あるいは「時」は私たちを育てるのではなく、解放することではないか。私た
ちが探し求めるのは高位の存在ではなく、「もともと」の存在であり、もともとの高貴そのも
のではないのか。私たちが必要なのは成長することではなく、知ることである。進化が私たち
を助けるのではない、自己認識が助けてくれるのだ。15.23.1.729 6 2013断片でない伝記、あるいは独断的で偏見のない伝記というものがどこにあるだろうか。他の身
体で暮らした前世の背景もない資料は伝記作家が信じているよりも薄っぺらなものでしかない
からである。6.9.2.10230 6 2013
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