毎日
私たちが何と呼ぼうとも、大抵の人々が—曖昧か、または強固かはと
もかく—信じているのは、この世には神が存在し、宇宙の事柄に対し
て神の見解があり、それが宇宙を存続させているということである。
この目的について私は「世界意識」と呼ぶ、何故なら私にとって神は
「世界意識」だからである。これは素晴らしい考えである。それは何
れかの重要な最初の文化に取り入れられた古代の悟りであり、その後
に現れた他の文化に取り入れられ、現代の私たちの文化にも取り入れ
られている。この知識が、深く吸収され、正しく応用されて人類は源
泉とも言える存在と協調しているのである。16.26.1.641 5 2020「世界意識」は、宇宙の形、意図、指針や目的について独特で総合的な考えを
持っている。人間の屈折した限界のある思考では、この奇跡とも言える同時性
を理解することは出来ない。16.26.1.872 5 2020「世界意識」は、世界を統治する法則を持ち、またそれを支配する究極の意図
やそれを形成する見えない様式を所有している。16.26.1.673 5 2020それを進化と呼ぶことは出来るかも知れない。しかしながら、現実的には違
う。宇宙は「世界意識」に従うように 指示されている のである—これが事
態の本質である。16.26.4.1754 5 2020「世界意識」は、宇宙のために定められた原理であり、聖なる取り決めである。
16.26.1.1245 5 2020イマニエル・カントは、「大自然の隠された計画」と呼んだ。こうし
て、神秘的啓示は受けなかったが、深く透徹した思考により、「世界
意識」の存在を感知したのである。16.26.1.856 5 2020魂が感じている知識が、単に知的なだけでなく、説得力があり、堅固であっ
ても、単なる信念だけではなく、その根底に不変の意識があるとき、それは
真実の知識であり、正しい洞察であり、祝福すべき教化となる。16.25.2.177 5 2020自身の本質についてより深く見つめていくと--瞑想を実行しないでは出来な
い方法だが--自身の真理について理解していく。修行の第一段階では、周囲
の環境と外的世界が消える。第二段階として、瞑想が深まると、「私は神に
よって生かされている」という感情のみが残る。第三段階となると、「私」
という思考が消える。最終段階になると、「神」という観念すら消えてしま
う。そこには如何なる種類の観念も存在せず--言語を超えた平和と、純粋な
意味での意識と、静かなる境涯が存在するだけである。15.23.7.60, 巻8 5 2020世間での混乱の中でも、彼は「内なる神」の支援を感じ続け、世間の出来事
が他人の物として見え、自身はそれらの傍観者となってしまう。14.22.3.1169 5 2020もし、人が聖なる「世界精神」と調和して生きていたとしたら、自身に所有
している物は全て受け取ることが出来ることを信じるであろう。この信仰は
その境涯に自身が導かれるか、その境涯が彼を訪れてくれるかによって生ま
れる。16.25.1.5210 5 2020私たちが本質的には神と同じ存在だと思いだすためには、具体的には私たち
は人間であることを忘れてしまう必要はない。13.19.2.4511 5 2020「長期修行」は最終的修行までの準備段階を包含しているが、最終的修行は
含まれていない。それは悟りを妨害する障害を取り除くことを中心としてい
る。「短期修行」に属す修行は、悟りへの最終的方向を示している。15.23.4.1012 5 2020自由を希望するならそれに伴う責任も受け入れなければならない。これは人
として、そして社会の法則だけではなく、霊的な、そしてカルマの法則でも
同様である。6.9.4.7213 5 2020悟りを表現した著者の著作は、読者に悟りへの契機を与えることがある…
9.14.4.134, 巻14 5 2020肉体の欲望を克服しなければならないという考え方は正しいものである。し
かしながら、克服した結果は、「心の友」のようなものと一体となるという
のは最善の神秘家や哲学者の教えではない。実際に起こることは何かという
と、真実に愛すべき、その個人の高位の自我である「魂」と一体となること
である。これは真実の生きている実体であり、その存在は実感するものであ
り、その言葉は明瞭に聞くことが出来、その美しさは人の全ての愛を喚起す
るものである。5.6.4.9215 5 2020他の人を信仰する姿勢は初心者にとっては疑いもなく、助けとなる、ただ
し、その信仰が合理的なものであることが条件ではある。しかしながら、自
身の魂を信仰する姿勢よりは必然的に劣る段階のものである。外部のものよ
りも内部自身に向かう方法は、外部のものに向かう傾向性を克服するもので
あり、高位の段階に昇る方法である。2.1.5.30816 5 2020彼は偉大さを自身が持っているとは思っていない、それは自己の背景にある
と思っている。空虚な野望や虚偽の自我意識が、自身の心理的立場の真理に
ついて彼をだますことは出来ない。彼は自身のものではなく、人間の力では
なく、自身を人間としての道具として使う、より大きな精神が自身の自我を
隠してしまっていると理解し、そのように感じている。16.25.0.217 5 2020… 人はこの神の如き本質的な意識に昇りつめ、それを通じて神との共同作業
に従事し、偉大なる神の世界意識に参加させて貰うのである。6.9.4.136, 巻18 5 2020その他の全ての支援方法を試した後は、人に残る支援先は、彼がどのような
名前で呼ぼうとも、またはどのようにそれを描こうとも、聖なる「内なる
神」しかない。14.22.3.10319 5 2020どのような悪い状況でも、どのように思わしくない苦境でも、恐るべき危機
であっても、現実的事実、または精神的な展望のどちらであれ、良くならな
いというものはない。しかし、それを実現するには霊的に、即ち自我を捨て
てそれに働きかけなければならない。9.13.1.29020 5 2020彼がしなくてはならないことは自我をそのプライド、強欲や情熱とともに破
棄し、「内なる神」に従属していることを学び理解することである。6.8.4.22321 5 2020… 邪悪、攻撃心、暴力、憎悪や利己心の力との闘いは厳しいかも知れない
が、最後にはこれらの事物に対する勝利には希望が持てる。しかし、最終的
には人類はイエスの試練を逃れることは出来ない。霊的方法以外には決して
根本的救済はない。9.13.4.61, 巻22 5 2020初めは自我の持続する努力によって霊的瞑想は続けなければならないが、最
終的には「内なる神」の恩寵により、成就されなければならない。12.18.5.15623 5 2020習熟を完成した哲学者にとって、直観は最高の機能である。
14.22.1.25024 5 2020彼は突然「内部に耳を傾けよ」と言われているように感ずる時がある。これ
が起きた瞬間、この「内なる神」からの精妙な呼びかけに全身で注意を傾け
なければならない。彼が何に従事していようとそれを数分間中止するのは大
変な利益がある。何故なら指示された通り、内部に耳を傾けると、この囁き
は直ちに大きな声の呼びかけとなり、自身の全身を覆い始める。そして、そ
の声に完全に傾注したとき、--ここからは神秘的にしか言えないが--「内なる
神」の聖なる法話に引き入れられるのである。この瞬間は極めて短時間であ
るが、それは優美で、安定した平和に満たされるものであり、悟りへの契機
となるものである。14.22.5.11325 5 2020グルに対する過大なる呼びかけは、如何なるものも「真理」を想起する契機
とはならない。15.23.6.15626 5 2020「内なる神」の在所である自身を離れていくら探しても、修行は失敗に終わ
るだけである。14.22.3.5527 5 2020全ての人々の精神と「宇宙」の精神、そして個人の存在と「宇宙」の存在に
は大きな、そして確実な関係がある。この関係性により、人は宇宙の存在を
崇拝し、それと交流し、それを愛することが求められるのである。16.25.1.4028 5 2020自身の執着や欲望の強さ、または弱さが、彼の最初に、そして早い段階で自
我を捨てられるかどうかがかかっている。5.6.4.16629 5 2020シャムス・イ・タブレッツィは、「自我を忘れるまで神を想起せよ」と言っ
ている。ヨガの全てを短い、簡潔な文章で表現されている。15.23.6.17130 5 2020… 自我は絶えず 自身を生きながらえるため、必要であれば秘密裏に、最も
狡猾、浮薄、詐称で、欺く方法を全て使用する。霊的修行にも純真に参加
し、その道を狂わせ、その方法を誤用させ、自身の安泰を図るのである。6.8.4.207, 巻31 5 2020
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