毎日
一方の自分は誠実に真理を求めようとし、もう一方の自分はそれから逃れよ
うとしている。6.8.4.1061 5 2018哲学の心理的作業は死の恐怖からの解放である--それが老衰からのものであ
ろうと、戦争による暴力からのものであろうとも。6.9.1.322 5 2018小鳥のさえずりや春の訪れなど、自然における美しさは、啓示が魂を照らし
たときに私たちの心に訪れる至福の瞬間を思い出させてくれる。3.3.6.993 5 2018人は自身の知識とその行動によってこの道の遠い旅路を進むことができる。
しかし、最後の瞬間は恩寵に頼らなければならない。12.18.5.1424 5 2018イエスの弟であり、十二使徒の一人でもあったジェームズは、菜食主義者で
あった。しかし、神学者と歴史学者は、その次の世紀に生き、十二使徒時代
のパレスチナ人のグループと交際のあったユダヤ教/キリスト教混合派ヘゲシ
ッポスにジェームズが証言したこの事実を無視した。ヘゲシッポスは、さら
にジェームズは子供の頃から菜食主義者として育てられたと主張している。
これはその家族が揃って菜食主義者だったことを意味するのであろうか。12.17.5.915 5 2018「内なる神」が与えることが出来るものは、その他のいかなるところから彼
が得ることが出来るものよりも、遥かに大きいということを知らない者は、
真に無知である。何故なら片方は無限の力があり、もう一方では僅かな力し
かないからである。14.22.3.1126 5 2018教師は、修行者が自助努力をするのを支援するだけである。究極的には修行
者の努力のみが、その求める智恵と美を獲得することが出来る----それは今で
も彼の内部に存在しているのである。このような努力が成功するためには、
勇気がなくてはならないし、また持続するものでなくてはならない、繰り返
される失敗は、さらに深い決意を固めるものでなければならない。2.1.6.7177 5 2018… 青年時代、人はロマンスと愛を切実に求めている。その情熱は年とともに
自然にまた当然のことながら鎮まっていく。しかしながら、若い時の情熱と
激しいエネルギーが、大抵の場合、一部でもまたある場合には全てが、この
修行のために使用されるべきなのに、そのように使用されないことは残念で
ある…9.13.3.35, 巻8 5 2018人の中にはこの世に属さない、神秘的で、神聖で、気高い何かがある。この
何かが、忘れられないその瞬間に人を、感動させ、そこから放さないのであ
る。14.22.6.1769 5 2018… 誰でも瞬間的に真理を垣間見ることだけでは永久に満足はしない。それと
ともに生きることも希望する。彼は、束の間の啓示にのみ満足はしないであ
ろうし、またするべきではない。絶え間なく覚醒された状態を保つこと、こ
れは遠大な目標ではあるが、達成可能な目標とすべきである…14.22.8.107, 巻10 5 2018この内的冷静さを身に付けるための自己訓練の1つは、身の回りで起こって
いることで、自分の目的、義務や活動に直ぐに必要なこと以外は見たり聞い
たりしないことである。15.24.3.5611 5 2018人類にとって悟りを得た教師たちは、私たちに目標を与え、それに至る方法
を教えてくれた。2.1.1.5912 5 2018意志という能力は、霊的成長にとっては、知性よりも遥かに大切である。何
故なら身体の情熱や食欲は意志によって制御されるからである…5.6.4.35, 巻13 5 2018人が、知性、性格、霊的意識において発達すればするほど、彼を包むオーラ
は大きくなる。11.16.14.2214 5 2018絶え間のない自助努力は、エゴイズムを弱めることは出来るが、それを完全
に無くすことは出来ない。自我は進んで自己を抹殺しようとすることはない
ので、その最終行為は不可能なのである。自助努力により、何が出来るかと
いうと、それを抹殺できる方法を用意し、その作業を適宜なものとし、その
成功を可能にすることである。さらにはその努力によって知性と直感を磨
き、人格を高め、修行者がこれらの力を呼び寄せることになる。それらは許
しであり、癒しであり、取り分け「恩寵」を変換する力以外の何物でもな
い。12.18.5.13515 5 2018カルマは彼自身の一部であり、彼はそれから逃れることは出来ない。しか
し、彼は自分自身の一部を変えることが出来るように、カルマもそれに順応
して変えることが出来る。6.9.3.51616 5 2018彼は「啓示の直感」に通じる微かな初めの瞬間を認識できるように自身を教
育し、その始りに気付いた時、その他の全てのことを忘れてしまうように訓
練しなければならない。14.22.1.6117 5 2018「啓示」を垣間見る瞬間が迫っているような兆候が感じられた時、他の何か
に従事していることでそれを無視するのは間違いである。現在している活動
を中止し、リラックスして受動的になり、「啓示」の訪問を歓迎するように
待機すべきである。14.22.5.15818 5 2018学習者としての謙虚さと求道者としての求道心を持ち続けることにより、彼
は他の人々を支援するチャンネルとして自身の有用さを高めることが出来
る。12.18.3.6119 5 2018死は全てを示してくれる最大の瞬間となる。それに続く、夢のようなしかし
明瞭な体験の中で、人はそれぞれ彼が地球上の人生で本当に何をしたか、そ
れに対して何を すべきであったか、何をやり損なってしまったかを見せられ
る。6.9.1.9220 5 2018理想的な事が「内なる神」より、伝えられる可能性がある、しかしながら自
我は、その実現を妨げるため、障害を置き、抵抗する。2.1.2.41921 5 2018あなたの努力がある段階まで到達したとき、そのときこそ、それらの努力は
他の力--つまり高位の自己--によって横に置かれ、あるいはゆっくりと消えて
いく… この高位の力、または高位の「自我」は強く体験される。12.18.5.141, 巻22 5 2018人が得る霊的経験の種類は、その性格や知性、情熱により、発達したレベル
によって異なる。11.16.15.8223 5 2018自我の肉体的、知的、審美的、並びに霊的能力が十分に発達した後、その時
こそ、それらを放擲する正しい時である、その前にはするべきではない。し
かし、自我の我がままと無節操さはいつでも放擲してもかまわないし、また
放擲するべきである。6.8.1.17224 5 2018運命は彼に機会と困難を与える、それらをどうするかは彼の選択である、何
故ならそれらに対しては 彼が責任あるからである。6.9.4.9225 5 2018自我に属する全ての物は、その希望も恐怖も含め、放棄しなければならな
い。ある人にとってはプライドを捨てるのは困難であろうし、またある人に
とっては恥を捨てるのはさらに困難であろう、だが、この感情はともに放擲
しなければならない。5.6.1.45526 5 2018シェイク アル-アラウィは言った。「崇拝の行為は神を想起することを確立
するために定められたのである」 スーフィの教師は簡潔な文章に全ての宗
教の根本的礼拝について定義している。12.17.5.13527 5 2018… 1人の修行者が「自分が知らない何かをどうして認知することが出来るの
か」と問う。他の修行者が答える。「それが知力を超える何かに対する信仰
なのだ」 P.B.が言う。「そうです、その信仰が十分に深いとき、望まれる結
果に到達するのに十分であろう。そうでない時は、修行者が「内なる神」に
対して信じることが出来ない場合、教師が必要となる。その教師を信ずるこ
とによって自分だけでは到底困難な「内なる神」について知ることが出来る
のである…5.6.3.87, 巻28 5 2018… もし彼の修行が十分かつ誠実に実行されたなら、啓示への時期を修行者の
意志に基づき判断できる時が来るであろう…14.22.8.72, 巻29 5 2018私たちは荒れ狂う、前例のない嵐により、失望する時期を経験するであろ
う、しかし私たちが、どこまでも、どこまでも希望を持ち続け、励み続ける
というたった1つの教訓を身に付けたのであれば、天気明朗な時を勝ち取る
であろう。9.13.4.20330 5 2018自我はそれに対して嘘を言い、自我を同一とする人に嘘を言い、また他の
人々に対しても嘘を言う。6.8.3.8331 5 2018
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