毎日
無神論者は「神はどこにもいない」と言う、神秘家は「神は今ここにいる」
と言い、哲学者は「全てが神」と言う。16.27.1.521 5 2014哲学者が私心なく人類と義務への奉仕に絶えずいそしむという点ではカル
マ・ヨガ行者とも言える。「聖なるもの」の存在を愛情を込めて求めるとい
う点ではバクティ・ヨガ行者でもある。世間の束縛から離れ、心を自由にし、
自らの聖なる使命に集中する点ではラージャ・ヨガ行者とも言える。世間を
形而上学的に理解するに当り、洞察力と理性の力を応用する点ではナーナ・
ヨガ行者である。13.20.5.182 5 2014意志を働かせ、決断力を発揮し、維持することにより、人は動物的自己を克
服し、平和を獲得することができる。霊的平静を実践し、内に向かい、高次
の意識を具現することによっても人は平和を獲得することができる。3.2.5.173 5 2014「内なる神」は完全な静寂と人の全き孤独の中で命令を発し、その要請を具
体的なものにする。しかしながら、それらはどのような騒がしい世間から発
せられるものよりも力を有し、強制力がある。14.22.2.1294 5 2014全ての生き物の自我は「聖なる」ものであり、究極の「意識」である。しか
しながら、人間としてのレベルまで進化したときに、初めて、その事実を発
見するチャンスが出て来るのである。16.25.1.175 5 2014因果の法は不変であり、気まぐれではないが、その結果は、時に正反対の思
考や行為が導入されることによって、変更されたり中和されたりすることが
ある。勿論、その後の人生において大きく変わっていくこともある。このよ
うな変化を私たちは悔恨と呼ぶ。6.9.3.5456 5 2014困難な、時には絶望的とも言える「長期的修行」における自己訓練は、緩慢
になり、あるいは完全に中止することもある。信仰、愛、謙虚さや神への追
憶により、恩寵にすがることにより、苦労せずに、時には法悦ともなる自己
放棄がそれに取って代わる...15.23.4.63, 巻7 5 2014真理は獲得され、幸せは成就する、そして「内なる神」の存在は、長い修行
の後に悟達するという考え方は幻想的なものと考えなければならない。真理、
幸福、「内なる神」は遠い将来ではなく、今、修行を始めるこの瞬間に、現
在いるこの場所で見ることが出来なければならないのである...15.23.5.216, 巻8 5 2014この修行道は勇気がないと成功することはない。初めの段階、中頃、そして
終わりにかけてもそれが必要である。自己に対する考察にも必要であるし、
環境に逆らって行動することでも必要であり、また新しいこと、知らないこ
と、あるいは不確かな方向に直感が導いたとき、それに従うにも必要である。3.2.5.139 5 2014哲学において聖者が獲得する最高の悟りは、最も鋭敏で、精妙な思考と、思
考のない状態に入る能力の結合したものでありーー真実の知識と平和への意
識が結合したものーーバランスが取れ、調和し、真実を齎すものである。こ
れが聖者を聖者たらしめるものであり、聖者の理解力と平和感は、外部の誰
に依存することのない、自身のものである。そしてこの真実を齎したものは
その小さなエゴの感情でもなく、その知的能力でもない。それは最高度の人
の心であり、最も洗練された人の感情である。完全なる人は自身が到達した
ものを失うことはない。それは人の内部で密かに働く高次の力である。16.25.0.110 5 2014哲学者は思想家でなければならないし、また信仰者でなければならないが、
中心的役割はそのどちらでもない。それは直感主義者としてのものである。14.22.1.24511 5 2014もしあなたが心的静けさを実践する必要な時間がないと言うのであれば、そ
れを作りなさい。一日のスケジュールの中で重要でない計画は全て削り、全
ての活動の中で最も重要であるこの活動のために空き時間を作りなさい。3.2.8.3312 5 2014恩寵とは個人の熱望、誠実さ、そして信仰に対する「内なる神」の反応であ
り、通常の状態より高次の次元に高めようとするものである。私たちの心の
中でのこの作用は(私たち自身が実行するのとは異なり)深き受容的静寂に始
まり、心的、情動的、そして時には身体的活動で終わる...12.18.5.38, 巻13 5 2014彼はそれが夢まぼろしのようなものであることを知っているが、それでもあ
たかもその夢が真実であるように、生き、仕事をし、行動し、愛し、努力し、
苦しまなければならない。13.21.5.1914 5 2014人格を陶冶し、内的成長する責務を個人として全うするという信仰者の義務
は、何らかの信仰団体に忠誠を誓うことによって逃れることは出来ない。2.1.3.27115 5 2014身体における生命を理解することにより、身体のない生命、つまり死という
ものの実体が理解できるようになる。どちらとも「精神」としての存在であ
り、それが真理である。6.9.1.6416 5 2014「自身の生命を失う者は、それを救うことができる」。このイエスの言葉を
一般的感情論として捉え、形而上的洞察に至らない人々にはこの言葉の本当
の意味は決して理解できない。何故なら他者への博愛的奉仕は気高いもので
はあるが、二次的な理想であり、「内なる神」との神秘的合一は極めて貴重
であり、第一次的な事業だからである。14.22.4.9917 5 2014「あなたが何をしようともそのことを私に申し出てください」とクリシュナ
は言った。これは取りも直さず高次の力をいつも思い出すことを意味し、ま
たこの金言を守ることによって世間の荒波で自己を見失わないようになると
いうことを意味している。12.18.4.13618 5 2014「内なる神」によって完全に覆い尽くされてしまうことを第一義とした後、
彼の第二の願いは、自身の中で炎のように燃えている平和感、理解度や同情
を広めることであり、理論的教説より内なる至福を広めることであり、また
聖なる父母を求める人たちを祝福し、啓発することである。13.20.4.22719 5 2014... 私たちは、過去により現在を飲み込ませてしまい、過去の犠牲者となっ
てしまうことにより、現在が持つとてつもない意味と大いなる機会を失って
いる。「内なる神」は直感的理解力から未来の視点で話しかけてくるのに対
し、エゴは記憶から話しかけてくる。過去は私たちを束縛し、新しい、高い
次元からの人生への視点が生まれることを阻害している。しかしながら、
「永遠の今」「この瞬間」に開示される人生を全く新しい視点で見始めるよ
う自己を訓練することは可能である。毎日、朝はこの世に生を受けた瞬間と
同じである。それは私たちが自分になる新しいチャンスであり、過去を蒸し
返した観念的型通りのものではない...13.19.4.171, 巻20 5 2014自身の源泉は何か、「自分」とは本当は何なのかについて瞑想者が持続して
考え続ける瞑想は、やがては自身が身体や欲求、知力とのみ同一視する呪縛
から解放する効果を持つ。4.4.4.5621 5 2014... 人は「内なる神」を通して究極の精神に根差している、従って「内なる
神」は一方では活動する世間と関わり、他方ではそれらの関係を全て超越す
る存在に関わっている...14.22.3.390, 巻22 5 2014知性は現代人を支配しているため、これらの質問にたいするアプローチは先
ず知性を通じて行われる。しかしながら知性はそれらに対して答えを与える
ことが出来ない。それらは直感を通してのみ、それらの回答は与えられるの
である。5.7.1.19923 5 2014「内なる神」を想起する実践。彼の意識の前面は日常の出来事に対応するの
に多忙であるが、その奥の意識は、「内なる神」を想う考えを妨げようとす
る思考が入り込むことのない聖なる空間に住している...15.23.6.176, 巻24 5 2014本当に大事なことは自分の人生をどのように生きるかということである。し
かし相対的活動には生きるための全てのことは含まれていない。意識は精神
の背後の部分から発生しており、この分野も外的世界同様有能な指導者によ
り探求されなければならず、また、その可能性と利益についてそれぞれ各個
人が独力で明らかにしなければならない。人生は、自身の内的発見の成果に
より、社会での生活が動機づけられ、指針が与えられ、またバランスが取ら
れたとき、その目的を達成する。2.1.1.19125 5 2014創造力に溢れる幾ばくかの人たちは、発展した段階における瞑想のテーマと
して海の広大さや宇宙の無限さを使用することが出来る。4.4.4.5126 5 2014あなたがこの問題について十分深く、また十分に幅広く検討した場合、幸福
というものが、人が絶えず追い求めているのにも関わらずほとんど全ての人
から逃げてしまっていることを発見するだろう。幸福を求めて成功する幾ば
くかの幸運な人たちはエゴによりそれを追及するのを止め、高位の自我によ
って内部にそれを求めた人たちである。かれらのみ、欠点や欠陥によって汚
されない幸福、つまり次の苦痛や悲しみの原因となるようなものではなく、
満足と平和の永遠の源泉となる究極の善を発見することが出来るのである。15.24.1.7427 5 2014人が「内なる神」との融和を意識的に求めたとき、彼はそれに伴う条件を無
意識に認めていることになる、つまり自身を全て「内なる神」に捧げている
のである...12.18.4.138, 巻28 5 2014彼の旅程がこの段階に入ったとき; 彼が自己の部屋を閉じ、横臥し、「内な
る声」に耳を傾けたとき; 内なる静寂が明確に聞こえ具体的な教示を伴って
いるとき、そのときこそ、彼は他人のために教えを説き、執筆することも出
来る。それまでは聾者のようにおし黙り、聖なる言葉を聞くことも出来ず、
それらを語る資格もない。しかし、今や、聖霊は降臨し、彼は自己を取り巻
く暗黒の中に真理を見るだけでなく、教えを受けたいと望む人にそれを授け
ることが出来るのである。14.22.2.16929 5 2014単に知的に研究することは価値ある人格を涵養するほど重要でないことをい
つも肝に銘じるべきである。何故ならエゴとの大変な戦いに準備をするのに
それがさらに重要だからである。5.6.1.3330 5 2014悲観論者が言うように人生は1つの困難から次の困難へと移っていくのが真
実であるのと同様に、人生は1つの喜びから次の喜びに移っていくというの
もまた真実である。しかし、問題は不安や不幸が喜びや満足によって十分に
償われているかどうかである。15.24.1.2031 5 2014
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