毎日
本当のところ、「内なる神」は最愛の友であり、通常の友情では得ることの出来な
い強い満足感と深い愛を齎してくれる。14.22.3.1301 4 2016この教えに対して十分な信仰を持ち、それが示す方向に進んだとき、遅かれ
早かれ未来においてこれらの一時的啓発を体験するであろう。14.22.5.122 4 2016三番目の段階の観想では全ての思考は取り除かなければならない。彼は単に
「内なる神」を直接、見ているだけで、「内なる神」に引き寄せられている
のを感じるまで、内的に静かにしていなければならない。15.23.7.2063 4 2016人として表現されている意識がそれ自体を追及する。これが修行である。し
かし、意識がそれ自体をその修行の対象としていることを学び、理解したと
き、人は自身の外部に何かを求めるのを止めるだけでなく、修行に従事する
ことすら止める。これ以降は「内なる神」の流れに身を任せてしまうのであ
る。15.23.1.34 4 2016人として、そう、確かに天国は地上に降り来たり地球上に建設される。しか
しながら、イエスの言った意味は社会的なものではなく、個人的な意味であ
る。各人が自己の中でその世界をつくり、自己の感情、思考と行動を通して
それを実現するのである。3.2.4.185 4 2016人として、高く昇れば昇るほど、彼は謙虚になる。世間にそれを見せないだ
けである、何故なら、そうする必要もないし、またそうすれば自身や他の人
に害すら与えてしまう可能性があるからである。彼は、それが必要な心の内
部で深く頭を垂れ、その聖なる場所において「内なる神」に対面するのであ
る。12.18.3.496 4 2016このタスクを始めるとき、彼は自己の希望の従ってそれを実行しているので
はなく、高位の存在によって用意された道に従って実行していることを知っ
ている。2.1.2.1687 4 2016私たちの夢のような自己は五感によって生活し、時間と空間における出来事
を経験し、夢の世界が現実の物と納得することを正当化してしまう。しかし、
夢から覚めたときに悟りを開くことにより、夢の世界は精神的な物に過ぎな
いことが証明されるのである。13.19.3.708 4 2016私たちの夢のような自己は五感によって生活し、時間と空間における出来事
を経験し、夢の世界が現実の物と納得することを正当化してしまう。しかし、
夢から覚めたときに悟りを開くことにより、夢の世界は精神的な物に過ぎな
いことが証明されるのである。5.6.1.689 4 2016夢を見る人のように私たちは私たちの周りを見て、そこで行動しているが、
夢自体が続いている限り、催眠術をかけられたように私たちは経験する現実
を受容してしまっている。しかしながら、夢を見る人と同様に私たちは、基
本的にこのような架空の経験に影響を受けていない、何故なら、私たちは「内
なる神」であり続けており、幻惑されたエゴではないからである。13.21.3.4010 4 2016神秘的な内的経験により、この修行が彼の人生において最も肝要な事業とな
る日が来るであろう。2.1.2.25711 4 2016高い精神性は自らの中に存在している。それを感じないのであれば、エゴの
弱さ、欠点、欲望や希望の背後に深く迫り、探求する必要がある。それはそ
こに存在するのであるが、探求は正しく行われなければならない。ここでは
既にそれを発見した先達の言葉に支援されることを発見するであろう。4.4.1.312 4 2016既に人が知り、経験する全ては連続した思考である。一つの例外があるが、
それは通常可能性だけで実現していない。それは彼が本当の自分自身を発見
したときに実現する。その時は思考は活動していない、それどころか思考は
適切に統御されていないとその発見すら阻害される。この一人だけの天国で
は知ることと経験することは一つである。14.22.5.713 4 2016...「短期修行」のときは「内なる神」をいつも思い出していなければならな
い...15.23.5.2, 巻14 4 2016最も価値のある哲学的特質の一つはバランスである。故に、修行者は完全な
権威主義に身を任せ、独自の思考能力を犠牲にするべきではなく、また一方
では他の人の思考と経験による果実を捨てて、道案内人のサービスを拒否す
べきでもない。彼はこの二つの極論に対して賢明なバランスを保つべきであ
る。2.1.3.25515 4 2016この経験の残光とも言うべき余韻は治癒する力としてセンセーションを起こ
し、神経や心の混乱し、否定的な状態を癒し、そして浄化する力は好ましく
ない思考を心から解き放してくれる。14.22.7.3516 4 2016知識には二つの種類がある、通常の種類はある事物や人物についての情報を
与える物であり、もう一つはより高度なものでそれは智慧に導く。電気器具
の扱いは手馴れているのに、自分の人生を扱うのにバカを演じる人が出てく
る所以である。5.7.7.4017 4 2016... 野菜の根を引き抜いたり、果物を摘み取るのは、動物を殺すことより、破
壊的でない—そして苦痛も少ない。これが、私たちがベジタリアンになった
ときでも生命を破壊しているという議論についての答えである。4.5.3.64, 巻18 4 2016... これらの難しいとされる問題点を理解する鍵は、夢で見る宇宙について考
え、その後、その宇宙、そこにある海や大陸、人々、動物、また時間におけ
る様々な出来事、空間での距離感は、夢を見る人の心を離れては存在しない
ことを思いだすこと、そして何百万人の人がその宇宙に存在しようとも、そ
れらは夢見る人の心に起こる思考以外のものではなく、夢見る人にとって、
水や、火、空気そして90種類余りの化学元素ですら、真実のように見える
が、所詮、その究極の真理は心でしかないことを思いだすことである。さて、
ここから今度は、目覚めた時に見る宇宙を次の相違を考えつつ同様に見てい
くのである、即ちエゴは目覚めた時の夢の対象の一つであり、従ってその夢
を突き抜け、それが大宇宙の心が見る夢であることを確定するには、エゴを
取り除かなければならないのである。13.21.3.44, 巻19 4 2016私たちがこの聖なる意識を保ち、持ち続ける範囲において、私たちもその知
識と力の何かを表現することが出来る。14.22.2.1920 4 2016今日、世界が必要としているが、世界はそれを意識的に求めないため、それ
を受容することの出来ない偉大なる真実がある。これらの真実を発見し、そ
の正しさと価値を確かめた人たちは、無理やりその教説を布教するような無
駄なことをしようとはしない。彼らは自ら骨折ってそれを聞こうとする人に
のみ、その真理をそっと用意する。9.13.4.32821 4 2016神はあなたの心が空になり、静かにならない限り、そこに入ることはない。
4.4.7.3622 4 2016... 何れかの女性か男性にその食卓の残りを与えて貰うお慈悲を乞う代わり
に、彼は自身の心の奥深くに滔々と流れ、従って彼が満足のいくまで味わう
ことのできる愛の源泉を発見するであろう。それは決して彼を棄てることの
ない、愛すべき存在で、彼と終生を共にする魂の友であり、自身の所有物と
の完璧な信念を持って、追い求めることが出来る唯一の双子の魂である。2.1.5.406, 巻23 4 2016転生とカルマの意味が彼の体内に深く浸透していけばいくほど、寛容さが彼
の感情の中で高まっていく。全て悪事を行う人は過去世の経験と現世の心の
状態からそのようになり、そのように行動したのであり、それ以外には行動
を取ることは出来なかったということが分かり始めるのである...5.6.5.32, 巻24 4 2016しかし私たちが深く考えれば考えるほど、思考や言葉は必要がなくなる、何
故なら多様性はこの素晴らしき統一感の中で全て崩壊するからである。この
至高の存在については正確な思考も言葉もない。それを正しく表現すること
が出来る方法は何か—沈黙である!2.1.6.77825 4 2016真の哲学は人生の送り方でもある、そしてその方法は人の感情が含まれてい
ない限り、効果的なものにならない、従って哲学は人にとって可能な限り、
洗練され、愛の溢れる感情を涵養するものとなる。12.18.1.1126 4 2016私たち各人は歴史の中で一つの時を生き、その時、ある場所を占有する。ど
うして今でこの場所なのか。因果の法によってその答えを探るとき、現世の
生活が過去世の人生と関連されていることを知るのである6.9.3.36727 4 2016孔子が言う「秀逸な人」は、自身の心を秀逸な話題に留め、些細なことには
そのエネルギーを浪費しない。これらの話題の中で、最高の話題は「内なる
神」である—その本質を垣間見ることであり、至高の自己を思い出すことで
ある。15.23.6.19228 4 2016この世界が精神的宇宙であると説くメンタリズムは普通の人にとって信じる
のは難しいが、悟りを開いている人にとってはそれを信じないことのほうが
難しい。何故かというと前者にとっては単なる理論に過ぎないが、後者にとっ
ては自身の体験だからである...13.21.4.45, 巻29 4 2016この修行は、人里離れた地方に赴き、雑事に紛らわされることなく、霊的に
高揚出来るようなところで、静かに自然とともに瞑想する時に最大限の効果
で成就される。そこは「高位の自己」への信仰にとって最高の導入口となる
寺院であり、また低位の自己に対する訓練が最大限に発揮できる修道院でも
ある。3.3.6.1030 4 2016
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