毎日
取り除くのはエゴの暴虐ではなく—もっともそれは大きな仕事の一部として
必要ではあるが—またエゴが根絶され、永遠に死を与えることでもない。い
や、そうではない--生かして日常の仕事に従事させるのである、ただし、清
浄なる存在として、また高潔な人格とし、あるいは静かなる心、啓示された
人としてである—つまり、人間として至高のものを現出する新しいエゴとし
てである。人はそれでも「私」というエゴではあるが、ただし「内なる神」
と調和しているのである...2.1.0.1, 巻1 4 2014思考が征服されない限り、現在の個人的な経験は私たちを真実から遠ざけて
しまう。4.4.1.382 4 2014哲学を至高のものとして崇拝している私たちは自分自身に対して誠実であら
ねばならない。私たちはまた全ての努力の最終目的は、自己放棄であること
を認めなければならない。人間としてこれ以外には出来ない--完全、従順に
平伏し、そこで自分を放棄し、エゴを失い、自己を失う--その後は逆説であ
り、神秘がある。13.20.5.113 4 2014高度な瞑想の実践を通して糸のように走る1つの基本的原理がある。それは
このことである、意識上の五感により形成された特定事物についての考えや
特定の対象に対するイメージを放擲し、そしてこの行為ついて私たちが何を
し、何故それをしているのかについて完全で知性的理解を持ってそれを実行
したとき、放擲した後にやがて分裂されていない純粋な「思考」が自ずと現
出する。それは私たちの内なる存在そのものである。15.23.7.94 4 2014秘策は、彼が何をしていようと、あるいは何かを発言しているときでさえ、
その瞬間にいったん中止し、内なる直感に耳を傾けてみることである...14.22.1.66, 巻5 4 2014「長期修行」の初期の段階で、自身の感情が否定的で敵意があり、あるいは
他人との関係で批判的であり、また自身との関係で平静を妨害するものであ
ればそれを毎日抑制してきた。現在の「短期修行」ではこの訓練を停止する。
それは最早特別に大切なことではない。なぜなら、それはエゴをそのことの
ために準備させてきたからであるーーつまり、エゴを忘れ、聖なる存在、
「内なる神」へと注意を集中することによりエゴを超越することだったから
である。15.23.1.456 4 2014見えないが、実感される実在が話す言葉は私たちの肉体上の耳には聞こえな
いが、心には強く印象付けられる。そのような言葉はこの世にいない者から
来るのではなく、自己の神性から発せられたものであり、深いところの神秘
の源泉から発せられたものであり、「アストラル体」と言われるような薄っ
ぺらなものではない。14.22.2.1547 4 2014... 「内なる神」とは意味を記述した名前であるが、捨てるべきではなく、
維持すべきである...2.1.0.1, 巻8 4 2014心を落ち着け、清純にし、またその力を集中する目的だけのため、哲学を学
習する前に幾ばくかの時間を毎日瞑想に費やすのは良い慣行である。それは
学習にも良い影響を与える。4.4.1.259 4 2014私たちの存在と世界の存在が夢のような存在という発見に私たちは驚く必要
はなく、また実際的でなくなったり、非能率になったり、あるいは人生に興
味を持たなくなったり、行動がうつろになる必要もない。何故なら寝ている
ときに、私たちは怖い夢を見るよりも楽しい夢を見るのを望むように、この
目覚めている世界でも出来るだけ楽しく、利益があり、また成功して生きて
いくべきだからである...13.20.4.303, 巻10 4 2014「内なる神」の来訪は人にとって何を意味するのだろうか。それは先ず分裂
されていない心を意味する。14.22.3.19811 4 2014全ての行動が止み、身体が不動となり、そして意識が静かになったとき、中
国人がWu Weiと呼び、不作為を意味する状態に到達したことになる。この状
態では何も望まず、希求もしないので、素晴らしい静けさが現出する。修行
者はそのとき目的の終焉に近づくが、この平和が徹底し、永遠に身体の中に
樹立されない限り、修行は終わらない...15.24.3.289, 巻12 4 2014彼の自助努力は「恩寵」に依存することとバランスが保たれていなければな
らない。もし自助努力にのみ依存し、自己を磨き、直感を発達させようとし
たならば、その結果に不満を感じ、不幸であろう。「恩寵」は祈りと瞑想に
より、「内なる神」に祈念することにより、呼び起される。しかしながら瞑
想は一元化の実践と呼ばれる、特殊なものでなければならない。この瞑想に
より、宇宙の無限の力と同化することを求め、自己があるということは忘却
しなければならない。15.23.6.4913 4 2014よく引用されるが、ほとんど理解されていない聖ポールの言葉にはどんな隠
れた意味があるのだろうか、「肉欲的な意識は死を意味し、霊的なそれは生
と平和を意味する」。それは性的道徳観にのみ言及しているのだろうか。あ
るいは敬虔な感情に言及しているのだろうか...肉欲的な意識とは肉体即ち
物質を真実と理解する意味である。霊的な意識とはエゴのない「心」以外に
真実を認めないという立場である。このような立場に立ち、物質とエゴを超
えたものを求める者は誰でも、ポールが示唆する結果、つまり本当の生と不
壊の平和を得る。13.21.5.36, 巻14 4 2014自己の心のコンテンツをよく観察し、それらの性質、その源、そしてその効
果を十分に理解した結果は極めて重要なものになる。4.4.1.2415 4 2014人の身体の中には「内なる神」を投影されたものとそのチャネルとが同時に
存在している。大宇宙に存在し、そこで隠された叡智と知能は人の身体にも
存在している...4.5.0.1, 巻16 4 2014小さな自己についての思考が消え、 ... その背後にあり、それを超えた
「もの」だけが感じられ、知られているとき、人は古の聖者が呼んだ 「触
れることが出来ないものに触れている」体験をしていると言える。16.28.2.137, 巻17 4 2014... 否定的な考えは捨てよう、取り分け他人のことについてのそれは。非難
や批判は止めよう...15.24.3.289, 巻18 4 2014彼の思考は「内なる神」によって導かれ、彼の感情は啓発される、そして彼
の行動はその発露となる。かくして彼の全ての生活は調和が取れたものとな
り、また神々しいとも言えるほど完成されたものとなる。13.20.5.2319 4 2014... イエスは彼を必要とする者のために内的コンタクトを保っている—―つ
まり何百万の人のために。イエスは死んではいないし、死ぬことも出来ない。
イエスを遠い国よりこの地球上にもたらした愛は、彼をここに留まらせてい
るのである。12.17.1.92, 巻20 4 2014就寝する時は、出来事、行動、話したことなど記憶にあるその日のことを思
いだし、同時に高い観点からそれらの性格について評価をするべきである。
しかしながら、その実践が終了したら、そのような体験や全ての個人的事柄
から完全に離れ、純粋にして献身的尊崇の静けさにより自身を包むべきであ
る。4.4.4.15021 4 2014思考を超えるものが思考に入り込むことは不可能である。しかし、ヒントや
提案、シンボルなどは何らかの役に立つことはあるかも知れない。それ自体
で生じる直観のみ、真実の近くまで迫り、それについてのヒントを与えてく
れる。14.22.1.2222 4 2014エゴが存在していないということは「内なる神」が存在していることになる。
しかし、これは人の思考による皮相的判断に過ぎない。なぜなら「内なる
神」はいつでも存在しているからである。14.22.3.5823 4 2014個人の心は、自己の意識を通じ、またその意識の中で、宇宙意識を自らに投
影する。このことが全て真実とするならば、その体験は個人的なものと言う
ことが出来る。ところが個人の心は宇宙意識に根差し、それから離れること
が出来ないので、それは真実の一部に過ぎない。人の宇宙意識は神の思考の
範囲であり、それに包摂されている。13.21.3.7024 4 2014それは思考を停止するだけではない。それが前提ではあるが、それ以上のこ
とが必要である。それは「聖なる存在」に対する積極的な覚醒である。15.23.7.4525 4 2014... この修行の途上で彼は様々な無常と昇り下りを経験するが、それは内な
る真実のみが不変の価値を持つことを明確に確信し、従ってこの道を最後の
拠り所として選択することが強制されるためであり、また隠された品格を現
出するためでもある。しかしながら自己の能力を超える試練を受けることは
ない。3.2.3.135, 巻26 4 2014ある出来事に対する道徳的反応や、それに対する精神状態、その中での感情
的反応はおしなべて自由に決められる。実は、ここで更なる霊的成長への重
要な可能性か、あるいはそうでなければ物質的頑なさに発展するかが決まる。
彼は内的強さを増強するか、あるいは人間的弱さに陥るか、どちらにもなり
うる。6.9.4.2427 4 2014このクラスの求道者にとって適切な瞑想の方法とは自己を「内なる神」に同
化させ、真理について繰り返し宣言することである。15.23.6.4728 4 2014彼が明確な視界を得たとき、それは大きな喜びをもたらすだけでなく、大き
な悲しみももたらす。彼は人々が人生に悩み、人生に苦しみ、そして人生に
迷っているのを見る。彼は人々が、正しい道に導く人がいないために、誤っ
た道を彷徨っているのを見る。また人々が光を求め、祈りながらも暗闇に囲
まれているのを見る。その時に彼は自らの人生を根本的に影響してしまう決
断をする。この後、彼はこのような他者に関わり、霊的サービスに捧げるよ
うになる。13.20.4.22629 4 2014もしこの教えが大衆化されるのであれば、一部は留保され、その純粋さと完
璧さは保護されるべきである。しかしこれら留保する部分も過去にあった例
のように大きなものであったり、また極秘であったりするようなものであっ
てはならない。私たちが住んでいる世界の異常とも言える時代、その危機の
性格から考えても、このような開示は必要であろう。13.20.2.3030 4 2014
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