毎日
対象のない意識そのものを知ることだ-------そうしたらあなたは自由になれる。
14.22.5.671 4 2013人生の究極の価値は何か」と聞いてみるが良い。それに明確に答えられたとしたらその人は、
人生を送る戦略的方針、その具体的な方法、そして現実的な問題など、身近なほとんどの疑問
に答えられるだろう--------3.2.4.48, 巻2 4 2013自分のエゴを意識しなくなったとき私たちは初めて完全にエゴを明け渡したと言える。そう強
く願うこと、それがその達成を可能にする。12.18.4.1173 4 2013形而上学を学び、また神秘的な修行をすること、それらは、すべて悟りと呼ばれ、意識の大空
を駆け抜け、真理を一瞬にして知るための準備である。故に悟りはこの地球上の人間を待ち受
ける最高の体験である。12.18.4.1174 4 2013内なる声の呼びかけは、その深部では力強いが、私たちの耳には初めは微かで弱々しく、その
ため、つい無視してしまう。人間にとってこれは悲劇である。不幸への道に誘おうとする感情
やエゴ、あてにならない知性と呼ばれる声だけが大きくて騒がしいのだ。人を正しい道や神に
導こうとする囁きは小さくておとなしい。14.22.1.2015 4 2013「内なる神」が生きた存在として感じられたとき、エゴから発する欲望の意識の支えは外され、
思いつきや感情の浮き沈みより自由になれる。そして環境に左右されない、それ自体が完全と
も言える内なる安心感が与えられる。14.22.3.1046 4 2013「内なる神」を住まいとしている人は愛着や怒り、憎悪など低次の感情から離れ、静かである。
静謐さが自然と態度に表れているのだ。15.24.2.1137 4 2013人が「宇宙意識」を垣間見ることができたとき、なぜ地球上に生まれたのか、そして、どこで
何をするべきかを遂に知ることができたと確信する。心は大きく広がり、小さなエゴからよう
やくにして脱し、長い間、隠されていた心の奥底の秘密を発見する。16.26.4.1218 4 2013宇宙は自らの存在であり、本質でもある「宇宙意識」より生まれる。故に宇宙は聖なるもので
あり、また神は私たち一人一人に存在し、すべての原子にも存在している。神の存在を否定す
る人がいたらその人は自己の存在を否定していることになる。16.27.2.379 4 2013私たちが見る一輪の花の美しさはそのような美しさを考えることのできる「心」を指そうとし
ている。自然や芸術は神を指そうとしているのではないか。3.3.6.110 4 2013賢者は「内なる神」を人生のすべてに発現させる。自己のエゴによってそれを妨害したり、ま
た感情によってそれを脇に置こうとしたりしないのである。14.22.2.6311 4 2013人を進化させ、洗練するためには知的能力や「心の力」だけでなく、感覚的能力も養う必要が
ある。これらの三つの能力は同時に養われなければならない。自然や芸術、日の出や絵画、ま
た草花や音楽の美しさを愛することは、理想的人間像へと押し上げてくれる。3.2.5.4312 4 2013私たちの心の行くところには遅かれ早かれ他の能力もついていく。だからこそ心を「静ひつ」
に完全に明け渡し、「内なる神」に心を導いてもらうことが肝要なのである。15.24.4.9013 4 2013心が自己の考えや想像、願望のない状態になったとき、そこには本当の幸せがある。
15.24.1.7714 4 2013「真実の心」は一つしかない。その他は表面上の見せかけでしかない。エゴを忘れ、この無限
で、終ることのない真実を考えること、それが最高の瞑想である。16.28.2.10215 4 2013師は、弟子が崇敬の念を持って何を学んだら良いかを愛情深く教えてくれる。
2.1.6.55316 4 2013人生を最高に生きようと、私たちはどこかを訪れ、誰かに会い、何かを読む。このように考え、
信じていることこそ、初めから最後まで間違っている。つまるところ、初めから「我が内なる
ものを見よ」という古代からの金言に従うほかに私たちが行動することは何もないのである。4.4.1.717 4 2013私たち自身で、私たちの深奥で、そして私たち自身の存在としてそれを知るまで、またそれを
知らない限り、「内なる神」を説明しようと百万言を費やしたとしてもそれを説明することは
できない。5.7.8.2, 巻18 4 2013生身の肉体を正しく使えばそれは贈り物と言えるが、間違って使えばそれは災いとなる。現世
に生を受けたからには「内なる神」に喚起される存在を達成しようと一歩でも前進することで
ある。6.9.2.22719 4 2013すべての体験は通常、感覚や知的な反応によって起きる。しかしながら、これらのチャネルを
通さない体験がある。それは感覚でも思考からでもない。それは一体何なのか。哲学ではそれ
を「超越した世界」に属すと言っている。14.22.4.520 4 2013人間の経験は高次の体験をするための実験室である。世間は霊的な発見をするための学校だ。
そして、人生の浮き沈みは倫理的な成長を促す現場とも言える------9.13.1.2, 巻21 4 2013哲学者を目指す者はラベルや分類または境界線にとらわれてはならない。人は通常、これらの
境界線にとらわれ、とらわれない人のことを理解できない。哲学は道なき道を目指している、
それは真実とともに初めて見出される自由なる道である。13.20.1.15322 4 2013広大な宇宙さえもそのすべてが思考であると知ることができたとき、さらに私たちの「心」こ
そ、宇宙が発生し、存在する唯一で究極の原理であると感得したとき、私たちの知識は最終に
して完成されたものとなる。13.21.5.17823 4 2013「短期修行」の驚異である、それは、私たちが私たちの弱さや価値のなさを考えた瞬間にそれ
を拒否することを教えてくれる。それは喜びでもある、強靭にして聖なる「内なる神」に直接
連結することや、「内なる神」より発せられる善きことや叡智を反映する考えだけを受け入れ、
持つことを強く勧めてくれる。15.23.1.14324 4 2013深奥の自己自身に触れたとき、人は不幸を忘れ、幸福を享受できる。真実の幸せを見つける鍵
はここにある、皆が求め抜き、求めても得られない真実の道は、実は心の奥底に潜んでいるの
だ。15.24.1.7925 4 2013考えるということは知的な動きである、移動することが身体の動きであるのと同様である。
「静かにしていなさい。そうすればあなたの中に神である私がいることを知るだろう」という
新約聖書の金言は身体だけを指すのではなく、心も指している。高位の意識を得るためには心
も身体も活動を停止しなければならないのである。15.24.4.8626 4 2013聖書によると人は神の似姿として創られたと言う。ただしこの人とは私たちが見ることができ、
私たちの耳に聞こえる声で話をする地上の人ではない。その「人」とは心の深奥の「無」の世
界で発見される。その「人」は耳を傾けている人々に沈黙の中で話しかけるが、そうでない人
には話しかけない。16.26.4.7327 4 2013世間の出来事へ多大に関わりながら、内なる魂を顧みないことにより、精神の混乱を生じてい
ることを私たちは今、世界中で目にしている。人々の世間への出来事に対する関心の強さは脅
迫観念とも言えるのではないか。3.3.2.11828 4 2013宗教を信ずることは良い。しかし哲学は信ずることだけでは十分でない。それは学ばなくては
ならないのである。しかも頭で学ぶのではなく、心と意志により学ばなければならない。故に、
それは数年で極めようと思ってはならない、この仕事には生涯を充てなければならないのだ。3.2.9.6429 4 2013宗教上の祭ごとや儀式は、神はこの世界に住む生き物とは関係のない、外の世界にいるという
観点から論理的に発生している。したがって神を敬い、交流することも外の世界の出来事とな
る。しかしながら神秘主義の理論と実践では、神はすべての生き物と内的に繋がっているとの
観点から発生している。11.16.1.4330 4 2013
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