毎日
ああ、主よ、もし私に祈りがあるとすれば、それは「私 を完全に静止させ
、静止 以外の何ものでもない汝の完全なる静止に私を導くこと」である。12.18.2.711 3 2022瞑想の理論と実践において、ブッダより優れた専門家がどこにいるだろうか
。釈尊は、その行為を真剣に学ぼうとする人々に、二つの基本的な条件、す
なわち、外部での孤独と内部での忍耐を確立することを勧めたのである。4.4.2.32 3 2022もし「内なる神」の恩寵がその人を支配しようとするとき、その人の自我の
どの部分も抵抗してはならない。そのために、その出来事のための準備、つ
まり、そのような抵抗を引き起こすことが確実なものを、その人から取り除
くプロセスが必要なのである。言い換えれば、「長期修行」の活動は、「短
期修行」の目的を実現するために必要なのである。15.23.4.213 3 2022芸術家が真に霊感を得たならば、人に恐怖を与えるのではなく、むしろ美を
もたらそうとするだろう。色、音、言葉、形など、どのような形であれ、そ
うなるのである。最終的なステップは、それ自体のための美ではなく、それ
が指し示し導くもの、すなわち人間を待ち受ける美しい意識、内なる美のた
めである。9.14.2.464 3 2022意識は自らの存在に対する最良の証人である。
16.28.2.1335 3 2022もし彼が自分の隠された直観力をしっかりと信じているならば、論理や状況
の反対を押し切ってでも、その導きに従う覚悟を決めたことが、彼の成功に
繋がったと信じるだろう。14.22.1.1226 3 2022「長期修行」は、自己改善と自己制御という大きな理想を掲げてはいるが、
やはり利己的である。なぜなら、霊的に向上しようというこの決意は、意志
に基づく野心—自我の高次の部分によって意志されたもの--によって方向づ
けられているからである。15.23.2.1057 3 2022...いかなる種類の思考によっても把握することができないので...心は、その
本質が明らかにされるべきであり、意識もおおやけにされるべきで...そのす
べての内容を空にする必要がある。15.23.7.154, 巻8 3 2022これらのヨガや身体的な修練はすべて賞賛に値するものである。それらは修
行者に勧められるが、あくまでも付属のものとしてである。基本的で避けら
れない日常生活における自我との一瞬一瞬の闘いの代わりは努めることは出
来ず、その可能性もない。4.5.5.148, 巻9 3 2022彼が自分自身を成就するために知ることができ、そして知っていなければな
らないことがあるが、それは番号付けされた事実の積み重ねではない。 そ
れは宇宙の源との彼の関係に他ならない。16.26.4.83, 巻10 3 2022恩寵がなければ、入ることはできない。私たちは努力し泣くかもしれないが
、恩寵が私たちに来ない限り、天の御国に入ることはできない。いつ、どの
ように来るかは、私たちのカルマ、私たちの切望、そして神が用いる経路に
よる。12.18.5.132, 巻11 3 2022あなたの軌道に触れるすべての人は、知らず知らずのうちにあなたの先生に
なっている。彼は、それがどんなに小さくても、あなたにとって価値のある
ものを持っている。それなら、彼にその使命を果たさせましょう。否定的な
感情の雲で覆って、教訓を曇らせてはならない。5.6.5.34412 3 2022いかなる世俗的な利益も、聖人が人類に奉仕するという神聖な任務を放棄す
るよう誘惑することはできない、また、いかなるエゴイズムも、彼を信頼す
る人々を裏切ることにつながることはない。16.25.4.4813 3 2022その洞察は、一度捉えると、どんなに短くても、普通の生活のつまらないこ
とへの冷静な不満、その哀れな無益さと空虚さへの明晰な認識、そして人間
自身への冷静な不満が残るだろう。14.22.7.7414 3 2022心のカメラには、たった1つの意識の光があるだけである。それなしには、
私たちの自我意識のフィルムに世界を写すことはできない。それがなければ
、自我意識そのものが空白になってしまう。その光こそが、「内なる神」な
のである。6.8.1.7815 3 2022もし、日々の仕事をしながら、深奥の自己への深い想起と反省が共に行われ
るのであれば、さらに、自我からの離脱が共に実行されるのであれば、この
ゴールは、世俗を捨て去った者と同じように、世俗を生きている者にも到達
することができる。3.2.5.8816 3 2022ゲーテは言った、 あなたは私に私の居場所を与えながらも あなた自身の人
生から切り離すことはないと。14.22.3.1517 3 2022私たちが自我にしがみつくことで、「内なる神」から自身の生命を切り離し
、古い限定的存在に閉じこもる惨めな緊張感は、それらの習慣からの結果で
ある。もし私たちがこの習慣から抜け出して、より大きな生命の自由な創造
性を得ようとするなら、この悪循環を断ち切らなければならないであろう。
このことは、思いがけない出来事の衝撃によって強制されるかもしれないし
、悟りを開いた人の恩寵によって可能になるかもしれない、あるいは意志の
断固とした決意によって達成されるかもしれない。いずれにせよ、それは自
我の終わりの始まりであり、私たち自身にとって最高の始まりとなる。6.8.4.19418 3 2022他人の教えで頭がいっぱいになると、自身の「内なる神」の教示、導き、直
感に注意が向かなくなることがある。2.1.3.7219 3 2022この高次の自己に理解が近づけば近づくほど、彼は謙虚になり、この尋常で
ない状態を自慢することも少なくなる。12.18.3.6620 3 2022神の無限の心から生まれ、神の無限の心に根ざしたままであるという彼の発
見は、とてつもなく大きなものであるが、それは彼を神と同一にするもので
はない。16.25.1.10821 3 2022彼が自己自身の内なる意識にさえ気づくことができればいいのだが......。
6.8.1.7922 3 2022もし、彼が誠実であると同時に決意があり、無欲であると同時に自制心があ
り、敏感であると同時に直感的であるならば、道の探求は遠くまで行くこと
が期待できるかもしれない。2.1.2.8223 3 2022それは、平和な実在だけがそれを保持し、満足させるような思考を超えた領
域に到達するまで、自身の注意を内側に導き続ける作業である。4.4.1.16424 3 2022人間の知性の教育、霊的直観の培養、人格の高揚は必要なことである、なぜ
なら人類を破局にならないように防御しているのは、これらが一体となって
いるからである。9.13.4.28325 3 2022彼はこの経験から、世界が通常は知らない愛や、それが実際に起こることは
めったに見られない善意、そしてそれが人生の中で暗い場所を照らすことが
あることを理解し始めたことを知った。14.22.6.40326 3 2022人間の思考をすべてまとめると、その総和が自我を構成する。それらを「静
けさ」に委ねることで、彼は自我を捨て、イエスの言葉を借りれば自己を否
定する。6.8.4.20027 3 2022「無限の心」は、その有限の表現である人間の自我の中心にある。
16.25.1.1228 3 2022この体験を通して、「内なる神」は私に何を語ろうとしているのだろうか。
私に何を学び、何を知り、何をし、何を避けることを望んでいるのだろう
か。9.13.1.12229 3 2022エゴは自らを崇め奉っている。それは、すべての事柄において、自分の優位
性を主張している。このような状況は、日常生活の普通の事柄では普通の人
に許されるかもしれないが、修行の重大な問題として、真理を求める人に許
されることではない。求道者は、自分のエゴを敵と見なす習慣を身につけな
ければならず、エゴに媚びるのではなく、むしろ抵抗しなければならない。6.8.4.16930 3 2022その人は、やがてカルマに問われるとき、他人が与えた善悪の証明書ではな
く、自分の心で感じた動機、心に抱いた態度、そして自分の手で実行した行
為によって判断されるのである。6.9.3.22031 3 2022
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