毎日
私たちの過去の行為と思考が、そして特に私たちの傾向性が私たちの性格を
作り、私たちの現在を構成している。6.8.3.231 3 2021… フラッシュが彼を捉えた身体のポジションはどんなことがあっても変更し
てはならない。その変更に対する全ての種類の言い訳も不安定な低位の精神
性により為されるが、それらは受けられず、また拒否されなければならな
い。通常の瞑想の場面に移るべきであるという前提も受けることは出来な
い。瞑想は閃光が初めにフラッシュされたその瞬間の状況から始めなければ
ならない…14.22.8.107, 巻2 3 2021…愛は知識と結婚しなければならない、慈悲はその暖かい光を冷たい理知に
注がなければならない。他の人を悟らせることが、自身の悟りの貴重な代価
とならなければならない…5.6.1.60, 巻3 3 2021修行者は、先ず何が自身を高位の自己より引き離しているのかを見出さなけ
ればならない。そして、それを知った後、これらの障害を取り除く方法とし
て哲学的訓練の必要性と価値を見るであろう。13.20.3.774 3 2021… 生命が人類において個人的自己意識を知ったことは哲学と経験により正当
化された。では、人類のみが意識したのは何であろうか。それは自身のこと
であり、自身の自我である。進化の早い段階においては、意識は現状の形態
としては、完全に隠されており、自己認識したことはなかったのである…16.26.4.237, 巻5 3 2021精神が記憶によって塞がれ、自我が過去の経験を蓄積して満足していると
き、精神は自我から自由になり、「我が家に帰ることはない」。6.8.4.746 3 2021「長期修行」の修行者は自身の欠点と世間の邪悪さに悩み、その解決に多忙
なとき、「短期修行」の修行者は、「内なる神」と「世界精神」の善を微笑
みながら見るのに多忙である。15.23.5.337 3 2021救済は、無神論者、信者、悪人、善人、無知な人、知識のある人、無関心の
人、熱心な人など、全ての人々ためにある。悟りがはるか先か、または直ぐ
かは、時間の問題で、悟りの実現自体は誰でも間違いない… 新約聖書では、
バガヴァッド・ギーターの罪人と善人を含めた全ての人々への救済の約束は
同様のレベルで語られている。ティモシー2:4.では「神は全ての人々は救済
され、真理を悟ることを望んでおられる」との言葉がある。12.17.1.192, 巻8 3 2021人々の心と精神の奥深い所に彼らがほとんど訪れようとしない所がある。と
ころが、そこには、直観による閃き、重要な啓示、常識を超えた力強さ、ま
た世界を超えた平和など、多くの財宝が隠されているのである。14.22.3.2269 3 2021感情は、不安定な忠告者ではあるが、洗練され、純粋になり、自我より解放
されたとき、直観に変革される。5.6.3.2810 3 2021「長期修行」は、修行者に対して、様々な改革、一定の訓練を実行するこ
と、いろいろな方法での個人的努力等、自身を磨くように要求する。しか
し、「短期修行」は自身がしたことよりも、自身に対して何をするかのこと
に関心を持つ。それはどうしてだろうか。何故なら「短期修行」は恩寵の道
だからである。修行者は受け身でなければならず、教えを受けなければなら
ないのである。15.23.5.10711 3 2021… 神を思い出すことは、外的活動の振り子が永遠にそこを回転する不動の旋
回軸とならなければならない…15.23.6.176, 巻12 3 2021個人的経歴からだけではなく、社会からの影響に囲まれている修行者が、選
択の自由があると語るのは意味がない。しかしながら、彼には自由が全くな
いと思考し、行動するのは誤りである。何らかの方法が存在している、何故
なら全てのケースではないが、彼は、少なくとも高位の方法か低位の方法を
選択出来る状態にいつも直面してからである。6.9.4.2813 3 2021自身の完全なる静謐と完全なる忍耐を持続することにより、「内なる神」は
私たち待っている。14.22.3.8414 3 2021「内なる神」と一体になることを要求するのは急ぎ過ぎてはいけない。それ
は数年に渡る全面的改革の後に初めて訪れるものである。修行者は、それを
受けるために、内的に準備しなければならない。その後に初めて究極の一体
化が期待できるのである。この準備は、理性、感情、意志そして直観の全て
の人格に影響を与える。13.20.3.25415 3 2021一日を心に愛を込め、神経には平和を与え、精神には真理を思って始めたと
き、あなたはそれらの到来に寄与するだけではなく、それは、あなたの家
族、または友人、そして運命が引き合わせる全ての人々に、それらを与える
ことになる。3.3.1.416 3 2021全ての事物に対しての「聖なる源泉」に近付いた人は誰でも、その「力」の
オーラに触れ、その「光」を認識する。14.22.4.15617 3 2021普遍的法則と形而上的真理は感情を鍛え、思考を高める。この学習は自らを
放棄させ、小さな自我に背を向けさせてくれ、自身の「内なる神」を発見す
る道を明確にするために支援してくれる。5.7.7.17518 3 2021「長期修行」の修行者は、自身の低位の感情を抑え、高位の感情を養うこと
に努める。しかし、この全ての修行で、一人で自身を見つめ、自我を清純に
し、それを向上させるように努めるが、さらに自身の自我を鎮める。3.2.1.19119 3 2021聖なる力が自身の内部にあることを知り、そう感じている修行者は、不安や
懸念から文字通り自由になるであろう。この段階までは至っていないが、そ
の道を進んでいる人は、その力の存在を固く信じることによってこの段階と
同様の結果に近付くことが出来る。しかし、そのような修行者は、本当にそ
のような信仰を持ち、そのように発言するだけではならない。修行者がその
ような信仰を持っているという証拠は、彼が否定的思考、不安な思考や意気
消沈した思考を拒否する範囲に示される…13.20.3.97, 巻20 3 2021日々の活動に追われる中で神性が完全に忘れ去られてしまうと、否定的なこ
と、愚かなこと、自己に対しての自信の無さが容易に思い出されてしまう。3.3.2.5521 3 2021死と、そして身体から脱するという甚大な出来事は、修行者の修行を妨害す
ることはない。6.9.1.10622 3 2021彼がこの地球上に生存していたという自覚は、その痛ましく、混乱する人生
を、それ以外では全く無秩序に見えるものを、少しは耐えられるものにし、
多少とも意味のあるものにしてくれた。何故なら、彼の高位の境涯への発展
は、何らかの進化があったこと、またその人生の背後には目標と目的があっ
たことを、 私たちに思い出させ、いやそれどころか、確信させたのである…16.25.4.71, 巻23 3 2021神学の言葉では「長期修行」は悔恨 を意味し、「短期修行」は、「内なる
神」への信仰を意味する。15.23.5.13024 3 2021楽しかった、または不安だった過去について、自我はさらに誘惑して騙す。
楽しい、または不安な未来への予測は同じように作用する。しかし、その二
つの考え方を放棄し、永遠の「今」に生きることによって、自我を弱めるこ
とが出来る。13.19.4.19125 3 2021… 修行者が希望出来る全ての事は自我の働きを弱め、自我自体の勢いを弱め
る事である、しかし、自我の力を完全に離れる事は自身の能力の限界を超え
る。故に、自己以外の力を呼び寄せなければならない。修行者にとってかか
る力で利用できるものがある… それが恩寵である…6.8.4.424, 巻26 3 2021万一、「内なる神」の実現に喜びが無いとしても、そうする価値は十分にあ
る、何故ならそうすることによって他の多くの宝物が備わっているからであ
る。しかし、そこには喜びも存在し、いつも必ずそこに存在している。15.24.4.11727 3 2021鍵となる言葉は尊崇の想いである。その想いは、全ての観想や瞑想に込めら
れていなければならない。12.18.1.3528 3 2021「内なる神」との神秘的交流を求め、その隠れた姿を拝する荘厳さを求める
者は、この修行を自身が選択した道としなければならない。14.22.5.1129 3 2021多くの動物の無力さを利用した、人類の恐ろしい武器や、冷酷な罠、または
強力な仕掛けは、罪である。人生を測るカルマは、それに対して、適切な報
いを読み取るであろう。これらの動物に対する通常の残酷さも罪悪である
が、生体解剖による科学的残酷さはさらに過酷な罪である。5.6.7.930 3 2021個人の人生体験のパノラマを見えない背景として「内なる神」に開き続ける
信仰は、様々な出来事に適切な展開を私たちに与え、困難な病気などにも最
終的治癒を与えてくれる。15.23.6.24831 3 2021
The notebooks are copyright © 1984-1989 The Paul Brunton Philosophic Foundation
This site is run by Paul Brunton-stiftelsen · info@paulbruntondailynote.se