毎日
「悟への覚知」は「内なる神」の意味がどんなものかを体験させてくれる。
それは彼に—知的想念ではなく実現した事実として—彼が努力して進むべき
理想的形態を示してくれる。14.22.6.2921 3 2020十字架の聖ヨハネは次のような訓示を与えた「あなたの心に入れ、そしてあ
なたをいつも支援しようとして存在している神のもとで努力せよ。神より何
かを感じたり、聞いたりしようとするのではなく、純粋なる愛を神に向け
よ、…”15.23.1.66, 巻2 3 2020高度の瞑想で求められる姿勢は完全に弛緩した状態だけではなく、頭から足
元まで少しも動いてはいけないということである。15.23.6.273 3 2020様々な思考が統一されていても、それとは分離した自我が心に存在している。
神秘的体験でも同じことが言える、思考が自我と共に消えても、それらとは
別の真実の存在感が生き続けている。6.8.4.4104 3 2020光や平和、理解への瞬きは束の間であるが、それでも効果を意図している。
それらは修行者に修行を続け、それらが属す世界に入れるように激励してい
る。それらが束の間なのは、通常の思考と感情の条件が、これらの瞬きで表
現された光輝く条件より、遥かに低い位置にあるからである。言葉を変えて
言えば、修行者は、この瞬間で示された珠玉の境地を味わえるように、さら
に自己改革に励まなければならないということである。14.22.8.135 3 2020人に動物的性格や身体の本能が襲って来て、それを制御しなければならない
とき、「あたかも~したようだ」という好ましい想念を急いで持つことが必
要である。15.23.6.1146 3 2020瞑想のとき、または日常の経験の中において自身の判断で行動し、物事を制
御しなければならないとき、自身の自我を捨てて高位の力に任せられるとき
がある、--そのときは、自我を捨てて、その高位の規律、命令または指示に
従うことが出来るのである。15.23.1.647 3 2020私たちが存在の根本である静謐を発見したとき、それは幸福そのものでしか
ない。私たちがその根本の表面に存在しているときは、幸福を望むが、それ
が発見されない。なぜならそこでは心がいつも揺れ動き、不安定で、混乱し
ているからである。15.24.1.988 3 2020他人が私たちにしたことを許す必要は最高に重要である。いや、それを守ら
ないことによってどのような処罰を得るにせよ、いつも必ず実践されなけれ
ばならない、義務である。私たちの他人との繋がりは、あるいは彼らとの関
係性は善のみを齎すものであり、決して悪ではならないのである。5.6.5.3149 3 2020高度の瞑想は、観想とも言えるものになる。そこには一つの取るべき姿勢は
なく、どのように座るかの方法もない。それは内的にさらに深いものであり、
物理的身体や環境は存在感も無くなり、あるいは全く無視されてしまう。15.23.6.3410 3 2020人々が「内なる神」に直接接触することは出来ないが、存在するという知識
を間接的に知っただけでも、極めて多くの人々が神秘的支援や慰安を得るこ
とが出来る。14.22.3.17111 3 2020彼が見る光が瞬間的な瞬きではなく、連続するものであった場合、先ず、彼
がする必要があることは、全ての否定的傾向性、思考、また感情を自身の性
格から完全に取り除くことであり、次に成長の途上における不十分さを改革
することであり、最後に自身の能力についてバランスを整えることである。14.22.8.1612 3 2020他人の私生活を知りたいという欲求、他人の出来事に関わったり、干渉した
りしたいという欲望は、自身の平和を希望するのなら、克服しなければなら
ない。15.24.3.6513 3 2020知る力は自身を知ることが出来ない、それは知る対象が必要である、しかし、
その背後にあるものはそれ自身を知っている。その「内なる神」は、それ自
身を知る唯一の実体であり、それは主体と客体を一つに融合しているのであ
る。5.7.1.20714 3 2020彼の親戚や友人が霊的概念を共有できないときは、彼らの理解のなさに対し
て寛容であり、それを理解し、忍耐強く対処しなければならない。5.6.5.16515 3 2020… 誰も自分の力や状況の範囲内にある以上のことを行うよう求められること
はない… 彼らが魅力的に感ずるような教え、または比較的簡単に理解できる
教えを彼らに学習させる。または時間がない、またはそうする気にもなれな
いのであれば、一週間に一度か二度、数分間の瞑想をしてもらってはどうだ
ろうか…そうすることによって正しい修行の初めの段階となるのではないだ
ろうか…2.1.5.249, 巻16 3 2020人は天を見上げ、または見えざる力に祈るため跪く前に、自我を破壊し、悲
しみや失望に沈まなくてはならないことが多い。12.18.3.8817 3 2020聖なる存在を毎日体験している人々は、聖なる力が存在するかどうかについ
て時間を無駄にして議論することはない。5.7.1.21518 3 2020通常の瞑想は相変わらず自身の自我に囚われているので、神が存在し、発見
される、ヒマラヤの頂上まで昇ることは出来ない。その瞑想者が自身の成長
や問題、願望にいまだに執着している。高度で統御された瞑想のみが神を思
い起こし、神と合一するため、それらの全てを忘却出来るのである。15.23.6.219 3 2020… 真理を思い起こす修行は、その修行が暖かく、生きた感情を持つものであ
り、修行の精神は持続するもので、消えるものではならない。15.23.6.176, 巻20 3 2020この静かな内部の世界に自然に入ることを学んだ者は何べんもそこに戻るで
あろう。他の方法ではこのような静かな至福を感ずることはなく、このよう
な意義は知られることはなく、このように個人的問題より離れさせるものは
ない。15.24.1.9021 3 2020人の罪は、自身の経験、能力、知識の限界の結果なのである。
6.9.3.21522 3 2020このように経験するのは彼自身の 大いなる存在「内なる神」なのである、そ
れは神秘的な力に圧倒され、そのエーテルな現実に恐れを抱き、それを通常
は--神と信じ--神としか言いようのない経験なのである。そして一つの意味で
は、その信仰は正当化できる。何故ならその経験を実際にしているとき、宇
宙意識の原子でもある彼自身は、それはそこに存在し、彼を受容し、またい
つも彼を支援していることを実感しているからである。14.22.3.33223 3 2020… 真理はゆっくりと、または速やかに彼を訪れ、そして彼とともに永遠に存
在し、思考による如何なる形の唯物主義や、信仰による二元論、または実践
面での教団の人によって変わることはない…5.7.1.213, 巻24 3 2020外的生活に対しては最善を尽くすべきだが、それに対して彼の全てを傾けて
はならない。心のどこかで霊的に独立していなければならない。その秘密の
場所が、「内なる神」の究極の価値が崇拝され、愛され、頼られるのである。15.24.3.14925 3 2020彼が十分なる忍耐力を持って続けていくならば、自身の修行を難しい務めと
して渋々実践するのではなく、心の心底からの喜びとして待ち望むようにな
る時が来るであろう。12.18.1.8826 3 2020… 彼は通常の身体を意識している、しかし彼は畏敬の念を起こさせる「内な
る神」も意識している。身体のことは行きがかりのショーの一部とし、自身
は参加していない見学者であり、その二つの背後に永遠なる「内なる神」が
ある。15.23.6.97, 巻27 3 2020男女にとって最高の目的を成就し、内なる束縛から逃れられる幸福、そして
自身の魂を知る静けさを齎すものがそこにはある。2.1.1.3628 3 2020私が「内なる神」と呼んでいるのは通常の人間と「宇宙意識」の中間である。
それは人の高位の性格を含むが、それを超えた聖なるものまで含んでいる。14.22.3.33029 3 2020人が行動を起こし、反省を促すためにある利己的興味は、「内なる神」への
修行に入る前の変化の過程では、破壊しなければならない根であり、枝であ
る。6.8.4.44930 3 2020創造的かつ独創的心は、自身の利益または恩恵のために仕事をすることが可
能である。さらに彼が他人のためにそれをする場合は、カルマとしての特典
も受ける。勿論、それは価値ある仕事である。6.9.3.40931 3 2020
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