毎日
恩寵は彼の中心部から外に向かって働き、彼の内部より彼を大きく変革させ
る、従ってその初めの働きは日常の彼の心には知られることはない。12.18.5.2651 3 2017瞬間的覚醒は彼がどのような聖なる存在かを個人的に知らせてくれる啓示で
ある。それは正に息をのむような素晴らしいものである。故に彼はそれが繰
り返されることを切望するのである。14.22.6.2872 3 2017彼が、全ての経験をエゴに関連させる普遍的な考えより離れたとき、彼は執
着を離れたと言える。執着から離れたことによって、自身よりいったん離れ、
環境に感情を交えずに対処できるようになる。15.24.3.1893 3 2017夕陽の沈む時や雄大な山々のある場所、または聖者のような優れた人々に頭
を垂れることの出来ない、あるいは垂れようとしない人は、最高の知恵につ
いて学ぶことは出来ない。3.2.5.424 3 2017私たちは、「内なる神」についての意識を日常の生活に、永遠の、そして途
切れない習慣として取り入れなくてはならない。2.1.5.1075 3 2017同胞に最も尽くし、しかしながらその功績を認知されることはほとんどない、
聖者とはそのような人である。何故そのようなことになるかというと、それ
は人類が本当の利益は何であり、目指すべき目標は何であり、そもそも地球
上には何のため生まれてきたのかを理解しようとしないからである。16.25.3.4936 3 2017私たちは、生が私たちの始まりであり、死が終わりであると考えている。神
学者と形而上学者は、人類の記憶が遡ることが出来る限りは、それを議論し、
反論もしてきた。従って彼らに「その通り」とか「それは違う」と私たちは
言えるだろうか。しかし耳障りな騒音や声が遠くの彼方に静まり始めたとき、
また、夜の静寂な時間が幾重にも幾重にも私たちを包んだとき、その時にあ
の不思議とも言える崇高な感覚が訪れる、そして静かに聴き続けていると、
それは「我が子よ、彼らが何を考え、何を言うかは、あまり重要ではない。
私は君の味方であり、君を落胆させることはない。そうしたければ死に対し
て微笑みかけなさい、あるいは恐れるがよい----しかし私はいつも君のそばに
いる」と語りかけてくる。1.9.0.57 3 2017… 形而上学は思考することにより私たちを、物質界を超える考え方に引き上
げようとする、瞑想は直感により、倫理は善行を実践することにより、芸術
は美を鑑賞することにより、同様の効果を狙う。哲学はその広大さとバラン
ス感覚により、これらの四つの方法を統合し、その「仕上げの石」とも言え
る洞察を加える。13.20.4.178, 巻8 3 2017動物でもなく、天使でもない、人間の立場は、その両者の真ん中当たりに横
たわっていて独特のものとなっている。9.13.2.4069 3 2017全ての思考とイメージを私たちの心から放擲することは不可能である。しか
し、私たちが単独で出来ないことは、高位の力が成し遂げてくれる。15.23.7.25610 3 2017他人に対する彼の振る舞いが親切心を増せば増すほど、それらは彼に返って
来る。彼の精神的道徳的資質を向上させればするほど、その効果は人間関係
において表れてくる。9.13.2.42711 3 2017人は失望から学び、悩むことから向上することは事実である。しかし、だか
らと言って、喜びや美しさを通じて学び、向上することを忘れる必要はない。9.14.1.6212 3 2017エジソンは、全ての発明は心の閃きから形が出来てきたと言っている。その
後は調査の問題であった。14.22.1.16713 3 2017私たちが、「内なる神」の偉大さに関連して私たちの矮小さに気付くとき、
私たちは謙虚になる。従って、謙虚さを培えとは「内なる神」の偉大さも人
間の矮小さも感じない人々のための初めの処方箋である。3.2.5.4114 3 2017神秘体験は限界がある。それはいまだに二面性の範囲に留まっている。何故
なら主観と客観の関係性がまだ残っているからである。どうしたらその限界
を除くことが出来るか。その答えは、「存在」そのものになりきることであ
り、そうすることによりこの関係を超越するのである。15.23.8.11915 3 2017経験を積み、成熟していけば、人はその聖なる「根源」と合一したいと希求
するのは自然であり、当然の帰結である。2.1.2.25216 3 2017片方のパートナーにとって不満足な結婚、または二人にとって不幸な結婚は、
異なる視点----高位の視点から見たときは異なる見方になることがある。9.13.2.48717 3 2017君の心には何があるだろうか。ラーマクリシュナのそれは彼が神と呼んだよ
うに「聖なる母」で満ちていた。まもなく彼はそれを発見した。聖フランシ
スのアッシジは、謙虚さを最大の美徳とした。彼は同時代で最も謙虚な人と
なった。目指す理想を心に描け。そうすることが、それを発見する第一歩と
なる。6.8.4.18018 3 2017経験という知恵が若さという情熱と統合され、その情熱を麻痺させるのでは
なく、鍛えるとき、また夢が行為によって実現され、理想が感情の中で反芻
され、直感が知力を支配し、意志に導きを与えるとき、人は価値あるバラン
ス感を成就したと言える。13.20.3.44419 3 2017私たちを傷付けた人たちを許すことによって、私たち自身が過去に犯した傷
害の罪を許して貰う立場に立つことが出来る。12.18.5.18120 3 2017…神の福音を宣言する仕事は全ての行為の中で最も賞賛されると神が認めて
いるとペルシャの預言者バハーウッラーは書いている。この仕事に完全に打
ち込むとき、彼自身が打ち寄せる波の一部であることを益々感じるであろ
う…13.20.4.275, 巻21 3 2017輪廻の過去世からの力は表面に表れ、彼にある決断、行動や態度を取ること
でその背中を押す。6.9.3.18422 3 2017彼はエゴのない状態にはほんのわずかしかいることは出来ない。エゴがまた
出現し、その栄光ある存在は消滅する、何故ならこの二つは相克する存在だ
からである。14.22.4.12723 3 2017失敗に満ちた過去を悔やんではならない、何故ならそれによって学んだ教訓
とその結果による苦悩によって現在の強さと知恵が備わったのではないか。15.24.3.22824 3 2017The Wisdom of the Overself (内なる神の智恵) において、私が二つの思考の狭
間で意識を集中することを書いたとき、私は仏陀が涅槃は「二つの意識の瞬
間の間」に存在すると述べていたことを知らなかった。私はこの仏陀の説は
私の修行法の有用性を確証するものだと捉えている----非常に難しい方法では
あるが。15.23.8.16925 3 2017確かにそれは、高位の自己を垣間見る素晴らしい瞬間である、しかし、それ
が議論も、解釈も、公式も、その判断の必要すらなく、それを遥かに超えた
積極的な知識と悟りと一体となったとき、祝福の如き安心感を哲学の徒に与
えてくれる。14.22.6.30126 3 2017直感はそれ自体が現れるのは時間がかかるかも知れない、しかしひとたび現
れると、それが与えてくれる内的確信と、正しいことをしているという強い
意識は、彼の行動を断固とし、速やかなものとしてくれる。9.13.2.24427 3 2017通常、「指導者」という呼び名はその帰結として「追従者」を想起させる。
しかしながら、ここで言う霊的指導者たちは、党派的に彼に従おうとする追
従者のグループを望まない。彼にとっては他人に何らかの直感や、考え、洞
察などを与えながらも、彼らに何らかの運動を義務づけるのではなく、彼ら
が望む修行をそのまま続行させることで十分なのである。2.1.6.49728 3 2017エゴの支配が続いている限り、それと追随するカルマ的傾向性は続く。しか
しその支配が弱まったとき、それらも自動的に力を失い、弱まっていく。こ
のプロセスを開始するためには、無私の超然とした見方を持つことである。6.8.3.8429 3 2017緊張からの解放がエゴを解き放つ初めとなる。身体、感情と心をリラックス
させることは、そのような望ましい結果への道を準備することになる…3.3.3.26, 巻30 3 2017… これが瞑想のはじめの秘密である----静かにしなさい! 二番目の秘密は----
私が神だということを知りなさい! 静かにすることでリラックスし、癒され
るような気持ちになるが、それ以上にはならない、信仰 が無い限り、また神
との交流を心から求めない限り。15.23.7.167, 巻31 3 2017
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