毎日
「内なる神」が発現する前、人の誇り高き精神はうなだれなければならない。
12.18.3.141 3 2016二つの心があり、二つの独立した意識がある-- 一つは低いエゴによる心で
あり、もう一つは高位の「内なる神」の心—という考え方は間違いである。
私たちには独立した輝かしい一つの心しかなく、その他は全て限定され、そ
れが投影されたものである。エゴはそれを基にした思考の連続にしか過ぎな
い。6.8.1.742 3 2016私は「内なる神」は両親のように慈愛があり、私たちの本当の幸せを考えて
くれていることを人々に伝えるのに飽きることがない。しかし、私たちが「内
なる神」と正しい関係を得たいと思うのであれば、その愛を返し、無条件の
献身を捧げなければならない。12.18.1.153 3 2016身体の表面にある器官は私たちの周囲にある事物の性格を説明し、その本質
を明かしてくれる。しかしながら、心がなかったらそのような説明も不可能
である。このことは簡単に証明できる。私たちが、深い思考に浸り、深き思
い出に沈潜していて、心が感覚器官より遠ざかっているとき、周囲のことは
意識できず、そこにある事物も認識できない。つまり、究極的には心が認識
することしか、私たちは認識できないのである。13.21.1.364 3 2016勝利する人は徹底した楽天主義、不屈の努力、そして創造的思考に軸足を置
いている人である。6.9.4.1195 3 2016私たちのエゴから思考と欲望が取り去られた時、私たちは原初の状態と最終
状態での自分たちを見る。その時こそ、神のような孤独と静けさの中で「内
なる神」のみが存在する。15.24.4.16 3 2016エゴの牢獄より逃げ、「私である」 に到達したい彼の願望は、飲食やドラッ
グ、セックス、冒険または野心についての試みに反映される。6.8.4.3607 3 2016誰もそれがどれだけ滞留してくれるか前もって知ることはできない。それは
どこからか、突然訪れ、次の瞬間には去ってしまう。この訪れが繰り返され
るかも知れないし、そうでないかも知れない、彼が成し遂げたものでないた
め、繰り返されることについて彼は何らの影響も与えることは出来ないのだ。
こうしてこの出来事が---繰り返され、この不可思議な霊的変革を続けること
が彼の最大の願いとして終生に渡ってそれを追及することになる。14.22.7.898 3 2016... 私たちの内部で発見されるはずの「神」は、私たちの外界で、変転する宇
宙にも等しく存在しなければならない、そうでなければ「神」が何故無限大
と言えるのか...。13.20.1.325, 巻9 3 2016心理学的な方法は宗教的実践よりも不必要と言うことはない。人の思考生活
は通常混乱しており、彷徨いが多く、落ち着きがない。孤独で静謐の中で実
践する瞑想は、その思考に絶えず挿入されなければならないのである、その
理由は第一に自己の性格を高めるためであり、第二は高位の自己を意識的に
知ろうとする道を開くためである。4.4.1.4410 3 2016この肉体を捨てる時が来れば、彼は、無知の人に見られるように、今まで目
的を果たしてきた肉体に縋ろうとして必死の努力をすることなく、運命の出
来事を受け入れる。16.25.3.28511 3 2016... 自己に対する訓練は永遠に続く、そこに終わりはない。何故ならエゴは求
道者が忙しくなるような方法を見出すことが出来るからであり、その結果、
自己改革の背後にはいつも自己が存在している事実を見えなくしているから
である。何故ならエゴがどうして自分を抹殺しようとするだろうか。しかし
ながら求道者が到達しようとしている目標は、エゴが目標への道を閉ざすこ
とを止めない限り、到達することは出来ないのである。この発見をした時点
では、彼は、「短期修行」を選択するしかなく、またその準備が出来ている
はずである。15.23.4.119, 巻12 3 2016過去に対する罪滅ぼしが出来ず、未来が予測不可能だとしたら、聖なる存在
を絶えず思い出し、現在を大切にする以外に実際的な方法があるだろうか。15.23.6.15813 3 2016「短期修行」の方法は、「内なる神」の天国の意識には、悪というものはな
く、悪い行いもなく、罪も、過失もなく、そして人の真実の存在はその意識
にあり、従って求道者はそれと一体であることを確認することである...15.23.6.129, 巻14 3 2016... 人の自我は何もないところから現れるのではない、だから消滅した時は何
もないところに戻るのではない。それは生成している「宇宙意識」に消滅し、
それによって吸収される。6.8.1.114, 巻15 3 2016聖なる本質は有限の知性には知ることが出来ないが、ある意味で深い直感に
より知ることは出来る。この能力は人が、前世における教化と浄化にて準備され、あるいは学習した知識と浄化によって準備した人が、その本質
についての思考も含めて思考を捨て、または思考が自然と取り払われ、忍耐
強
く、敬虔に、そして愛おしく、その出現を待つとき、表<れる——こ
の三つの
条件が大切である。16.28.2.9016 3 2016直感的感情を大切に扱い、信頼して協力したとき、その訪問は徐々に頻繁に
なっていく。14.22.1.9517 3 2016意図がしっかりし、霊的な考え方の人たちでも、人生で多くの失敗をするの
は彼らの誤った決断や行動が必然的に不幸な結果を齎すということがわから
ないからである。経験することだけがそれらを是正することになり、また人
生を繰り返すことだけが十分な経験を与えてくれるのである。6.9.2.22618 3 2016... 「内なる神」を思い出すことは、世間の事柄に対してどれだけ正しく処理
していようとも心の背景にいつもなければならないことである...15.23.6.176, 巻19 3 2016結局のところこのようになる、私たちは何もしないという技術を学ばなくて
はならないのである! このように言うと、誰もが少しも準備や訓練をせずに
これを実行出来ると思うかも知れないが、実は誰もそのように実行すること
は出来ない。何故なら「何もしない」という表現は、絶対的意味より解釈し
なければならないからである。私たちは---エゴを全く緊張させず、表現もさ
せず---全く何もしない、何も考えないことを学ばなければならない。聖書の
「静かにしていなさい!」という表現は全く同じ事を言っているのだが、他の
表現が否定的に言っているのに対して、こちらは積極的に表現している。仮
に私たちがこの技術を学ぶことに成功し、長い期間完全な静謐状態を保って
座していることが出来たとしたら、この世で最上の報酬、つまり聖書で約束
された「私は神であることを知りなさい」を与えられることになるであろう。15.23.7.25820 3 2016私たちの個人的な不幸を忘れる最上の瞑想は空を瞑想する事である。何故な
ら私たちがある一部の範囲でもその境地に入った場合、その範囲内で苦しん
でいるエゴを忘れることが出来、彼の不幸はそれとともに消えてしまうから
である。15.23.8.12421 3 2016この地球上での人生は、天の王国へと開かれる「狭き門」である。
9.13.2.18522 3 2016... 「内なる神」を思い出す訓練は、任意で偶発的な性格にも拘わらず、自ず
と不思議な効果がある...15.23.6.176, 巻23 3 2016... 彼の仕事は人類史上最古の物である---つまり「人生における究極的な価値
は何か」を問うことは価値のあることだと人々に納得させることである。13.20.4.275, 巻24 3 2016見えない「内なる神」に近づくため、世間的利益を犠牲にする人がいるだろ
うか...?12.17.6.157, 巻25 3 2016没我状態がある意味で進展し、精神集中がかなり安定したものになったとき、
私たちは観想という第三段階に入りかかる。ここでは個人的な努力は止めな
ければならない。直観が自ずと表現を始めようとするが、この段階では、私
たちは内的に可能な限り受動的になり、その表現を待たなければならない。
私たちがそれに従うことが出来たとき、それは強さと明確さを増大させてい
く... それがさらに進んでいくと、あなたの通常の自我よりも、尊く、幸福
で、気高き何か超常的存在が覆い始める。超常的感情はあなたの全ての内部
に浸透していく。それは遠い世界から来るようなものでもあり、また未知と
既知が逆説的に混ざり合い、半分は記憶にあるような神秘的音楽のようでも
ある。この時、私たちは神とリンクされる入口にいると言えるのである。15.23.7.197, 巻26 3 2016人が心の底からの個人的意志を投げ捨てた場合、つまり自身の個人的目標、
希望、その目的を高位の存在の意志に任せた時、全てが失われてしまったよ
うな気がする。しかしながら、真実はその時こそ、初めて全てが獲得される
のである。6.8.4.45827 3 2016聖者は誰も非難せず、自身の慈愛の外に置く人は誰もいない、そして最悪の
罪人ですら自身の心に受け容れてしまう。彼は、二面性は夢にしか過ぎない
ことを知っており、全ての生ある者に新鮮な思いを発見する。彼は世の不幸
は、神から分離しているという間違った、そして虚構の思考から起きている
ということを知っているのである。16.25.3.28828 3 2016「短期修行」では低位の自己を責めるのではなく、高位の存在に自己を引き
上げようとする。そうすることによって、彼の中にある欠点は自ずと消滅し
てしまう。15.23.1.13229 3 2016人間の意識が存在するところはどこでも、思考する人がいるところはどこで
も、彼の思考がある。主体と客体が一緒になり、エゴである私の意識が、目
覚めている状態と夢の状態の双方で出来上がる。6.8.2.7230 3 2016エゴの支配を取り除くとはどのような意味があるか。これを明瞭に理解するまでは私たちはそれを成し遂げるために何をするかがわからない。先ず第一に、私たちのことやその人生を他人や彼らの人生を観察するように冷静に、のめり込まず、そして公平に観察するように常に自己を訓練することを意味する。 二番目は個人的思考や感情の性癖につき、屈折し、不透明で、不正に干渉することに常に警戒心を持つことを意味する。遠い昔の過去世より積み重なったこれらの性癖を盲目的に受け入れていることが私たちエゴの人生のほとんどを決めてしまっている。三番目には、精神的な静けさを養いつつ、思考と感情を制御する持続した実践を意味する。
0.2.4.2131 3 2016
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