毎日
彼はその教えで多くのところが難解な場合、全てを理解しようと苦闘する必
要はない。自分が理解するところから始め、それを日常の生活に当てはめる
ことで十分である。このことが初めは理解できなかった概念を受け入れる直
感的能力に繋がっていくのである。3.2.5.941 3 2015... 私たちが前世でしたこと、あるいは望んだことが今世の人生の大部分を
予め決めてしまう。しかしながら、この原因と結果の結びつきは、悟りを開
いている導師のような人が指し示してくれるまでは私たちには見えない...13.19.1.40, 巻2 3 2015彼の思考が静まり、その意識は完全に内に向かった場合、睡眠と似た状態が
起きる、しかし、睡眠と異なり、意識はハッキリとしている。15.23.7.403 3 2015本当の神秘家は誰かが霊的修行を真剣に始めたと知るといつも喜ぶ。彼にと
って人生においてこのような満足感を与える物は他にない、特に以前よりも
内的教育の必要性が大きい世界危機とも言える現代においては尚更である。
今日、本当の意味で永続する外的安全性はこの他にはあり得ないのである。2.1.1.1484 3 2015聖なる存在はそこにある、その力は当然のことながらそこにあるのだ。彼は
その力を恩寵により利用することが出来る。ならば、それを見ようではない
か。しかし、どこでそれを見ることが出来るのか。イエスはこれに対して明
快に答えた「天国にある王国は君の中にある」と。希望を実現するには1つ
の方向しかない。自身の深部からなのである。15.23.1.175 3 2015秘儀とも言えるこの道は、人間の心とその源泉とも言える神性なる物との間
に、意識的にして完全なる関係を築く試みである。2.1.1.216 3 2015宇宙はいつの時代かに創造されたものではない、何故ならそれはいつも間断
なく現れては消え、活動したかと思うと、休息し、生まれ、進化し、そして
空の中に退避しているからである。16.26.1.1717 3 2015眼が自分でそれを対象物として見えないように、「内なる神」(それは自分)
を対象化することは出来ない...14.22.3.216, 巻8 3 2015大衆が持つ霊的レベルを超えて成長しようと願う者は誰でも、人類が普通持
っている枠組みを変えることから始めなければならない。彼は毎日反省し、
祈り、瞑想しなければならない。彼は自己の活動の全てを哲学による価値観
と倫理観に照らして検討し直さなければならない...3.2.5.4, 巻9 3 2015「恩寵」はいつでも存在している、何故なら「恩寵」を起こす「無限の力」
がいつも存在しているからである。12.18.5.2510 3 2015これらの学習と実践を始めることは若ければ若いほど良い。これらが既に定
着している家族の一員として生まれることは極めて幸運と言える。しかしな
がら人生のどれほど晩年においてこれらに遭遇したとしても遅すぎるという
こともない...2.1.1.132, 巻11 3 2015年を取ったメリットの一つは人生を振り返り、今後成長するためには何をし
たら良いかを検討できることである。過去にはいろいろな経験において、偏
った感情や拙速なエゴの判断により、それらの教訓がしばしばぼやけていた。9.13.3.13212 3 2015もし人が極めて困難な立場に陥り、即座に解決する方法が見つからない時、
状況が変わる(変化は必ず来る)までの間に時間をかけることは、大きく忍耐
力や辛抱する力、また冷静な態度を養うため、とても有用である。3.2.3.13013 3 2015
イエスキリストが自己の命を見出そうとする人は先ずそれを失うことから始
めなければいけないと言ったとき、 イエスは自己の執着している物を先ず捨てなさいということを意味していたのである。15.24.3.18314 3 2015心の平静をこの世で享受することは可能である、死んで来世まで待つ必要は
ない。2.1.5.17415 3 2015全ての事が人の人間形成に貢献する、その人の過去やその土地の気候、生ま
れ育った人々、自身の生命の傾向性など。ただし最も重要なのはカルマであ
る。6.9.2.2116 3 2015最後の段階では導師の存在や面影は色彩感のない修行者自身の魂の存在に取
って代わる。その最後の段階はイエス・キリストの弟子たちへの言葉に正確
に描かれている。「私がいなくなるということはあなた方にとって利益があ
る、何故なら私が行かなかったら「慰める方」は、あなた方のところに来な
いからだ、その方、つまり「真実の霊」が来れば、その方はあなた方を全て
の真理に導いてくれる」と...16.25.5.285, 巻17 3 2015... 人類の大多数は、見かけとは異なるが、正しい方向に進んでおり、いつ
か天の王国に入る日が来る。それを疑ってはならない、彼らの隠れた自己は
既に聖なる存在だということがその保証なのである。7.11.1.22, 巻18 3 2015人々が重力の法則より、因果の法則のほうが現実的であると理解したとき、
大きく利益を得ることが出来るであろう。6.9.3.8619 3 2015二つの場合の危険は片方の修行法に努力を限定してしまうことである。短期
修行に入ったからと言って人格を向上させることを止めてしまうことは問題
を生じさせてしまうことがある。しかしながら、そのような人格向上にのみ
努力を傾注することも不満をつのらせる結果になり得る。哲学が薦める賢明
なバランスは長期修行と短期修行のどちらの修行も止めず、両方を合わせて
使うことである。15.23.5.16020 3 2015彼は思考や感情、熱情の動きを自己と同一視する—――それで肝心な本当の
自己を見失ってしまうのである。6.8.4.721 3 2015ベッドの傍にメモ帳とペンを置いておき、深い眠りから覚めたときの直感を
書いておくことは、夢から覚めたおぼろげなイメージを思い出すことより、
有益かも知れない。13.19.3.9122 3 2015おぼろげなものだったり、一過性のものではなく、堅実で持続する「内なる
神」を希求する強力な願いは主要な条件となる。このような欲求は「内なる
神」を知ることへの渇きであり、「内なる神」を体験する切望であり、「内
なる神」との合一への呼びかけである。それは成長への確実な力であり、エ
ゴをより早く捨てるために有用であり、「恩寵」を招きよせるものである。
その願いがどれだけ熱烈に考えられ、他の個人的な願いに汚されていないか
によって、これらの好ましい効果が表れてくる。12.18.1.5323 3 2015私たちは神秘的瞑想によって神と一緒になることは出来る。しかし、神その
物にはなれない...16.25.1.55, 巻24 3 2015啓示を得るという経験は、以前に求道、努力あるいは自己訓練もしていない
のに突然ある人に訪れることがある。しかし、それが予測することなく来る
のであれば、予測も出来ずに去ってしまう。 霊界からの訪問者は束の間し
かいてくれない。だがその影響は永続する。私たちが長年に渡って苦労しな
がら求めているのに、そんなことは望みもせず、努力もしなかった人に何故
そのようなことが起こるのかと尋ねられれば、私はそのような人は前世でそ
のような努力をしていたのだと答える。今世に生まれるまでの間にそのこと
は忘れてしまったのだが、それが直ぐに消えてしまっても、その啓示によっ
て、修行を思い出すのである。故に道徳的また神秘的な修行結果は永続する
ということである。14.22.7.21725 3 2015彼がもし他人から提供された伝統的宗教だけを見るのではなく、同時にまた
深く自己の深層意識を見るようになったとき、彼はイエスや釈尊また老子に
より指示された道を歩み始めている。何故ならこの道が魂を、自身を開示す
る方法であり、修行場所でもあるからである。12.17.3.8326 3 2015偉人ですら全てに偉大なわけではない。エゴの限界から来る否定的感情や不
要な怒りに陥り、健康を損ね、あるいはトラブルに巻き込まれるのを見るの
は真に悲しいことである!8.12.6.8027 3 2015科学は経験する人間を抑えようとし、対象のみ研究しようとする。神秘主義
は経験という対象は抑えようとし、人間だけを研究しようとする。哲学はど
ちらも抑えようとはせず、全ての経験を研究しようとする。13.20.1.2128 3 2015人は前世で成就した覚醒を取り戻せないとき、損失した感情を経験する。
6.9.2.11029 3 2015私たちの誰も霊的成長を遂げるにはその道から外れるほうがうまくいく。
「内なる神」に近づこうとして私たちの心で何かをしようとしたり、身体で
何らかの実践をしようとすることは、その希望や望ましい状態を達成する力
を持っているのは私たちなのだという「長期修行」の考え方に基づいている
のである。しかしながら「内なる神」に近づこうとするよりも、いっそのこ
と、「内なる神」に来て貰ったらどうだろうか。これが実現するのは私たち
がその道から外れたときである。15.23.5.23530 3 2015そこで彼は心の全ての欲望を断ち切り、修行のために人生を生きる。
12.18.1.6931 3 2015
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