毎日
...どんなに彼が初心者であっても、彼が自己の誤りを見ることに熱心であ
り、また自己に対する過酷な批評家であり、また自己の人生を変え続けるこ
とに徹しているとき、そこには大きな希望がある。3.2.6.69, 巻1 3 2014多くの人は「内なる神」の啓示を得るだけで満足してしまう。しかしそうで
ない人も少数だがいる。その人たちは「内なる神」のもとで永遠に住み続け、
そして最大の深さで住み続けることを求めている。2.1.5.1092 3 2014「長期修行」がそれだけで始められるときと、「短期修行」と一緒に始めら
れるときとは、違いが出る。後者の場合は、ガイダンスという光が与えられ、
平和が確保され、成長は加速し、そしてバランス感覚も調和される。15.23.5.1853 3 2014私たちは「内なる神」を、それについて思考するのではなく、それ自体にな
りきることによってのみ知ることができる。それは思考を超えている、何故
ならそれ自体が「究極の思考であり、純粋な精神」だからである。14.22.3.1904 3 2014もし私たちが「自然」により固定され、束縛されているとしたら、何かを試
みる意味はない。しかし私たちはそうではない。私たちは叡智の動的中心で
ある。私たちのほとんどはゆっくりしたスピードで回転している。しかし、
私たちは全員もっと速く回転することができるのである。しかも、私たちの
うち、何人かは高速で回転することができる。何故なら私たちは何かをしよ
うとすることが出来るのである。私たちは心の静謐の中で、この事は成就し
たと念じてみよう、見よ、それはそのようになっているではないか。「私は
そうする」という言葉は人を前進させ、向上させる、敗北は次なる努力を生
むだけである。3.2.6.455 3 2014私たちが求めているものは既に私たちのものであるが故に、また「内なる
神」は今この瞬間ここに存在するが故に、本当はするべき修行はなく、たど
るべき道もなく、到達する目標もない。15.23.1.286 3 2014身体は遠くにあるように見える、しかし「私」は今までより身近に見えるの
だ。何故なら私は心の中に存在し、最早身体に囚われてはいない。そこには
解放感がある。私は「空間」のように自由である。15.23.7.897 3 2014デカルトの公式「我思う、ゆえに我あり」ではなく、神秘家の「魂は我にあ
り、ゆえに我あり」だ。何故ならデカルトの「私」は関係性であり、変化す
るが、神秘家のそれは絶対であり、永遠だからである。6.8.1.478 3 2014最終的には彼はこの内部の小さな声に依存する、それは謙虚に耳を傾けたと
き、どの道を行くべきか、話しかけ、教えてくれる。14.22.1.1639 3 2014人の真実の自己は、静謐の中心、真空地帯とも言える静寂の中心部に隠され
ている。この中心部、この真空地帯は空間としては僅かな部分を占めるだけ
である。その周りには、つくられた自己、つまりエゴを構成する思考や欲望
の輪が存在している。この輪は絶えず新しい思考により発酵され、また新し
い欲望によって変化し、喜びに舞い上がり、あるいは悲しみに沈んだりして
いる。中心部はいつも休んでいるのに輪は決して休むことはない、中心部は
平和を与えているのに輪はいつもそれを壊してしまっている。6.8.1.3210 3 2014私たちは私たちの人生によって、また私たちの態度によって、心を支配して
いる思考が真実であるということだけではなく、これらの思考を生み出して
いる本来の力をも、示さなければならない。3.2.6.4611 3 2014...この修行道では意志の強固さを養うことが必要である。修行者は自己制
御を実践し、有害な欲望を克服し、また否定的思考を拒絶しなければならな
い。彼は、これらの欲望や思考の結果として起こる行動に対して制御する術
を身に付けなければならない...4.5.1.1, 巻12 3 2014私たちは、瞑想中、「内なる神」の意識に入り込んだとき、天国に入る。
15.23.7.9613 3 2014瞑想は日々の儀式となり、昼食や夕食のように欠かせないシステムの一環と
ならなければならならないが、身体の感情には持ち合わせていない神聖さを
持ってとり行わなければならない。3.3.2.13914 3 2014「内なる神」はそこに存在している。しかし、私たちの意識の中に隠れてい
る。その深い静謐でのみ、私たちは蜃気楼でない真実と、幻想ではない実在
と出会うことができる。14.22.3.22515 3 2014エゴは思考の集積であり、固定してはいるが、何もない中心部を回っている。
数多くの転生から生まれた性癖により、このような強さとこだわりが中心部
に与えられなかったとしたら、それらの性癖はなくなっていたであろう。真
理である「心」はそのとき、姿を現わしたであろう。6.8.2.3716 3 2014...彼は自己のエゴを観察の対象として見ることから始めなければならない...
時間と修行、学習と洞察、支援や誠実を助けられて、公平無私の姿勢や中立
性が徐々に確立されていく。やがて内なる静謐が完全に到達されたとき、変
革は早まり、やがて高位の、「内なる神」の恩寵によってそれは完成される。15.23.6.97, 巻17 3 2014人の進歩が目指す目標は想像されたものに過ぎない。疑いもなく真実であり、
完全に間違いなく、真正な事実―――それは不変であり、永遠の真実である。
しかし、それは人類からは逃げてしまっている。2.1.1.16218 3 2014「人間は変わらないさ」という皮肉屋の嘆きには何と落胆することか。だが、
数多くの悪徳に溢れた世に生まれながらも自身は理性の支援によりそれら全
てを取り除くことが出来たというソクラテスの言葉には希望を与えられるこ
とか...8.12.4.122, 巻19 3 2014そうです、あなたの守護人はいつも存在しており、あなたの考えや行動を密
かに見ており、それらをいつも記録している。地獄のどす黒い奈落に沈もう
とも、あるいは輝かしき天国の高みに昇ろうとも、あなたは一人で歩くこと
はない。14.22.3.22920 3 2014人の経験ではそのようなことはないため、また全宇宙の中でそれから差別化
したというその反対の物もないので、「絶対者」というものが人の知性にと
って全く理解不能なのである。16.28.2.4221 3 2014人の個人的エゴは宇宙の人間ではない生命より、ちょうど大海から波が形成
されるように形成される。それはその無限の生命を小さなものに縮小し、閉
じ込め、制限し、限定してしまう。波は大海の水に対してそれと同じことを
する。エゴはその広大な存在に含まれる力と叡智の多くを閉じこめてしまう
ため、エゴはもとの姿とは全く異なり、はるかに下等な存在となってしまっ
ている。波もまた、水の表面でそれが形成されるだけなので、自らの存在の
背後にある大海のとてつもない深さ、スケールそしてその巨大さを示唆する
こともない。6.8.1.102, 巻22 3 2014誰もが世間の出来事を追及するのと同様の熱意でこの修行を追及したとした
ら、目標の達成はすぐに視野に見えてくるであろう。3.2.6.4123 3 2014彼は自身の特徴を、あたかもそれが外部のものであり、他の人に属し、自身
には属していないように捉える。彼は自身の弱点を学び、徹底してそれらを
理解する。しかし、彼は自身の強さも知っているので、落胆することはない。4.4.4.14624 3 2014ここには達成するという何物もない、自身の神聖さというある物を認めるだ
けなのである。15.23.1.3125 3 2014思考は時間の中での活動である。だからそれは時間のない世界には導かれる
ことはない。従って、この修行の完成には霊的静謐さが必要となる。4.4.7.5226 3 2014「宇宙意識」はすべての生命を支える意識的「力」であり、すべての原子を
支える知的エネルギーであり、また大宇宙の背後と内部に横たわる聖なる存
在である。16.27.2.5627 3 2014...人の精神が「私」意識で横溢している時、それを超越する「内なる神」
の住み給う場所がなくなるのは、論理的ではないだろうか。6.8.1.52, 巻28 3 2014初めにしなければならない重要なことはものの見方や考え方で自己の動物的
側面から自己を切り離すことである―――道徳的理由というより形而上的理
由により―――そしてそのために必要な内面的作業は、傍観者の役割を採用
することである。彼は自己の身体 (その行動、欲望や感情)をあたかも自分
自身とは離れているように見る、要約して言えば私心のない見方を獲得する
ことだ...15.23.6.98, 巻29 3 2014私たちが考え、発言し、行動する背後にある「私」という意識を突き止め、
それを思考や感情、そして肉体から離反させることが出来たとき、それは全
世界の背後にある高位の「力」に根差し、連結されていることを発見するだ
ろう。6.8.1.13430 3 2014「内なる神」の存在を意識する範囲に応じて人は啓発される。人が一芸に秀
でている範囲に応じて、その人の作品は啓発されたものになる。14.22.2.2531 3 2014
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