毎日
彼は「永遠」に生きているが、時間は必要なだけ自己から取らせ、それを使
用している。これがバランスである。13.20.5.401 2 2019瞑想の意義深い瞬間は、人が自身で努力することを止め、精神が彼を捉え、
それ自身で精神に引き入れようとしている時に始まると言える。これは驚く
べき経験で、何故なら既に自身がしていたこと、試していたこと、努力をし
ていたことを止めるという意識はなかったからである。彼はいつの間にか、
自然に、知らぬ間に受身に入り、それが身を包んでしまったのである。15.23.7.2662 2 2019瞑想の第三段階の観想では、精神は思考を止め、言葉もなく、純粋に愛を崇
敬し、「聖なる存在」を尊崇するだけである。15.23.7.123 2 2019私たちはこの聖なる存在が身体内部にあることを、瞑想の時だけでなく、市
場の緊張感の中でも、発見する努力をしなければならない。3.2.5.984 2 2019彼はこれまで彼の思考や日々を支配していた自我ではない部分があることを
学ぶであろう--喜びに溢れ圧力をかけられない部分を。そして心が平和であ
ることの本当の意味を知るであろう。彼は自身の一部でしか生きて来なかっ
たことを知り、その一部すら内部のまたは外部の摩擦により不幸を感じてい
たことを見るであろう。14.22.6.3365 2 2019修行はある一部の開拓者が霊的悟りを得るための試行である、何故なら他の
殆どの人は物質的自己を知ることで満足しているからである。2.1.1.196 2 2019呼吸法や曼荼羅のようなヨガの基本的修行は精神の根本的改革にはならない
が、それらはそのような結果を容易にする実践法として用意されている。4.4.3.2217 2 2019人生は、それについてどのように考えるかによって変わってくる。従って、
心から誤った考えを取り除き、真理を植え付けることがいかに大切か、この
必要性を認め、それに基づいて生きていったとき、私たちの人生はどうのよ
うに変わっていくことだろうか。6.9.3.1738 2 2019全ての精神が—鉱物、植物、動物や低いレベルの人間たちが無意識的に成長
することを通して—修行に入る時のみ、 意識的に それ自体の意識の発展の
ために修行に入る。2.1.5.769 2 2019… 高位の自己はいつもその人の全体像を改良しようと心がけている。そこで
この修行は三つの分野から成立する修行となる。例えば、知性を強めたり、
意志力を発達させたりする必要があるかも知れない。要するに全ての人格を
創り直さなければならないのである。感情面での完成は最も容易で初めに起
きる、理性面はもう少し困難で、次に仕上げることになる、正しい行動によ
る道徳的完成は最も困難であり、最後に終了する修行となる…3.2.9.21, 巻10 2 2019内的静謐より最大の決断、奇跡的治癒、記念すべき覚知、そして悲しみの終
りは到来する。14.22.7.17011 2 2019禁欲主義は、哲学とは折り合わず、神秘主義とのみ折り合う。しかしながら、
高い悟りの門に入る前に、人生においてヘラクレスの闘いをし、低俗なる性
格を克服しなければならない時がある。性欲は征服しなければならず、また
することも出来る。それが出来たときに、速やかなる霊的成長が可能となる。3.2.7.10712 2 2019… 誰も逃げることが出来ない表面的苦しみの下に、その類似の現象のはるか
な底に、巨大なる調和、広大なる愛、揺るぎない平和、そして普遍的支援が
存在しているのである。15.24.1.102, 巻13 2 2019暗いカルマにより肉を食べる人は性格が道徳的でもその罪から救うことは出
来ないが、多少修正することは出来るかも知れない。この悪い習癖は彼の健
康を損なってしまう。4.5.3.7814 2 2019覚知の瞬間が与えられた時は、彼はその期間を最大限延ばすことに努力すべ
きである。手や足または胴体などを少しでも動かさず、身体の位置を不動に
しておくのも、 大きく役に立つ。完全に静かにしていることは、精神の完全
なる平静を保つ最高の条件となる。身体のどこかに注意を止めるとしたらそ
れは心臓の部分にすべきである。14.22.5.11615 2 2019人生はそういうもので、低い属性と高い属性は永遠に争っており、自我は、
完全なる崩壊以外に確固たる未来は持ち合わせていない。聖書の文章である
「分裂する王国は立ち行くことはない」は的確である。このことから修行者
が、いつかは目標が到達されるのであるということを心にすべきである。進
化を確認する法則はないとしても、しかしそれはある。6.8.4.39716 2 2019彼は多くの足で蹴られる草のような謙虚さ、全ての天気に晒される木のよう
な忍耐が必要である。3.2.5.7617 2 2019必要なことの多くはバクティである、特に瞑想の瞬間はそうである、何故な
ら聖なる存在に対して抱く 想いが強烈で暖かいほど、そうである。単に頭で
知ったということから、心で知り、感じたということが真に必要なのである。12.18.1.1718 2 2019…そこ、ここで、群集より離れ、完全なる人間に成長する個人がいる。彼に
取って毎日は新鮮なる体験であり、全ての経験は独自のものであり、明日も
また、昨日の続きや予測できる積み重ねではない…6.9.3.112, 巻19 2 2019… そして「ギータ」はどのような努力も空しいものではなく、全てはいつ
か、どこかで--この生ではなければ、次の生で、この世でなければ、次の世
でその収穫は得られると私たちに語っている…3.2.5.109, 巻20 2 2019このことは何遍でも説明されなければならない、「内なる神」が人の意識を
管理し、その意志を支配し始めた後、彼の人格にある ものだけを支配する。
もし、例えば、発達していない理性の力があったとしても、それを彼のため
に、突然発展させたりすることはしないし、出来ない…11.16.9.56, 巻21 2 2019個性を失い、大衆の意識に溶け込んでしまうこと、または個人の自我を無く
し、自己を消滅させてしまうことは、瞑想のある深い段階での障害として現
れることはあっても、最も深い段階ではそれはない。15.23.8.5822 2 2019高位の存在に入る前に人の心臓を破裂させてしまおうか。答えは「はい」も
ある、だが教師、預言者、予言者、聖者を見たら、「はい」ではない。2.1.2.17423 2 2019イエスはどうして「私と父は一緒である」と言い、その後しばらくして、「父
は私より偉大である」と追加したのであろうか。答えは、人であるイエスが
高位の自我と完全な調和を獲得し、それと合一していることを感じているか
らである、しかし大宇宙のキリスト原理は人である彼よりいつも偉大である、
「内なる神」は人をいつも超越している。14.22.3.35524 2 2019私たちは自我を理解することから始める--自我は隠れており、仮面を被って
おり、または変装をしているので、その仕事は忍耐が必要である。私たちは
自我から自由になることで修行を終える。6.8.4.37925 2 2019自我をその隠れ家まで追跡することは、その開けた、または隠れた展開を観
察することであり、またいつも変化するその空虚さを分析し、理解し、注意
することである。最終的にそれは思考の構造に過ぎない--全ての思考と同様
に空しく、分解してしまうものである。6.8.4.38726 2 2019もし彼が、その輝かしい啓示に満ちた瞬間を退屈な日常生活と比較したとき、
人生の目的は何であるか、彼の本当の自我は何か、その二つをどうして、ま
た何処で発見するかについて、素晴らしいヒントを得るであろう。14.22.6.32627 2 2019… 結局、彼は知力より深く確実なあるものによって、自身の内部から教示さ
れ、指導される。単なる個人的なものではなく、高位の意志の流入に誘引さ
れ、必要なことを実行するようになる。13.20.5.45, 巻28 2 2019
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