毎日
この短期修行では、「存在」その物の意味、自身の存在意義、全体における
存在意義について、その究極の姿を発見するまで、追及することになる…15.23.6.109, 巻1 12 2018精神が突然悟りの状態になった人で、どうしてそうなったのか分からない人
は「傾向性」の教説にその答えを発見する可能性がある—出産前とカルマに
よる--前世から引継ぎ、霊的に深いレベルで持っていた物が表れたという考
え方である。6.9.2.812 12 2018聖者は苦悩する世界に同情するため、永遠に再生しなければならない、再生
の苦悩する輪廻から自由になれないとしたら、この「修行」とその努力の意
味は何なのであるか。答え、その通り、彼は自由を得ることは出来ないが、
精神的、霊的な 内部における自由は得ることが出来る。16.25.4.473 12 2018読者がそのような仕事は疲れ過ぎると思うのであれば、その報酬は、悟りそ
のものなのだということを思い出すべきである。2.1.5.1324 12 2018瞑想が続くと、思考が進化し、ある考え方が納得出来なくなる。「私はこの
精神ではない」と。その工程は更に進み、自己の考え方は更に深まり、今ま
で自身であると考えた全ての事を、1つ1つ放棄するようになる。15.23.6.1045 12 2018何処にいようとも、その場所が何処であろうとも、またはその人々がどのよ
うな人々であろうと、自分は聖なる場所にいると思うべきである。1.23.0.246 12 2018過去の物になろうとしている考え方は、決別する運命である。それらは不毛
であり、非能率的である。私たちはそれから脱却しなければならない。過去
の時代に有効だったある精神的態度も今は時代逆行した物になっている。原
始時代の人々に正しかった感情的表現も今は障害となっている物さえある。9.13.4.987 12 2018大抵の宗教での祈りの回数は1日に一度か二度に決まっている、そしてイス
ラム教では5回と決まっているが、その決まりを制定した聖者の目的は2つ
ある。1つは自分が何か—魂—を思い出すことであり、もう1つは私たちが
どこに行くかと--最終的には神のもとへ--行くことである。二つ目は仕事やビ
ジネスで物質的になり狭くなる私たちを救ってくれる。12.18.2.48 12 2018「内なる神」がその教義、祝福、または治癒を伝える個人的媒介としてある一定の期間、彼を使いたいことを彼が知った時は、無私になり、関わる人たちとの関係性において、自我を捨てることに努力しなければならない。
3.2.8.1419 12 2018私はこれらの頁の中で、前世まで、数回に渡って得た智恵と、愛で買い受け
たとも言うべき経験を語っている。8.12.3.7310 12 2018もし彼が、覚知が長く続かないと不平を言うのであれば、それは続かないも
のであると理解すべきである。それを受けるため、精神と心が正しく訓練さ
れていない限り、それらは直ぐに拒否されてしまうであろう。しかしなが
ら、拒否するプロセスは無意識的なものである、何故ならそれらを実行する
要素は、不安定な彼の思考であり、それを否定する感情であり、身体と同一
する意識であり、欲望の強さ、つまり、彼の自我を構成する全ての要素なの
である。最高の境地より彼を突き放してしまう力は、その境地にあるのでは
なく、彼の自我に存在しているのである。彼がそれを保ち続けられないので
あれば、更なる浄化と準備が必要であり、その準備のために開始するという
ことはその必要性を象徴するものである。14.22.5.17111 12 2018「内なる神」はいつもそこに存在する、それは決して私たちから離れる事は
ない、だがそれを求める時は、熱望し、愛し、慎重に求めなければならな
い。2.1.5.912 12 2018彼は気取らず、見栄えもしないようでもあるが、それは外から見ようとする
眼に対してのみそのように写るのである。精神と心、そして直感によって見
ることが出来る人たちには、神聖を伝える稀有の伝道者と見えるのである。16.25.3.139213 12 2018産業文明が、私たちの外的生活を豊かにしたのであれば、それは私たちの内
的生活を貧しくしたとも言える。私たちが外的生活と内的生活に対して正し
くバランスの取れた考え方を進め、そして、この地球上で私たちは何をする
ために生まれて来たのかについての指針の基にその2つの考え方を進めてい
たとしたら、そのようになる必然性は無かったであろう。9.13.2.14014 12 2018人から自我を取り除いてみるがいい、足元から固い土台が崩れていくであろ
う。下にはそそり立つ迷路が開いているだろう。それは完全なる孤独と恐ろ
しいほどの不安定さに伴い、彼の人生に取って最大の恐怖を与えるであろ
う。すると、彼は、愛して止まない自我を急いで取り戻し、安全さに再び戻
ろうとするであろう--真理を求める決意が強く、そして差し迫ったものであ
り、そのため、試練に耐え、苦難を乗り越え、迷路を「内なる神」の光が照
らしてくれるまで、耐え続けられない限りは。6.8.4.46515 12 2018哲学者が他の人と仕事をするときは、著作によるものが最も効果があるだろ
う。そこでは、死後で時間はなく、また死ぬ前の空間の距離のため、決して
望めなかった道途上の多くの人々に光や癒し、静けさと希望を与え、相談相
手のような立場で激励が与えられる。13.20.4.27916 12 2018所有物が多くあればあるほど、私たちはより多くの時間をそのために割かな
ければならない、故により多くのエネルギーを費やすことになる。そうする
と、それに比例して高位の学習、瞑想の実践や形而上的思索に使える時間は
より少なくなってしまう。3.2.7.16317 12 2018聖なる物のみが、彼の愛の唯一の対象であり、瞑想の絶えざる主題であると
き、恩寵による悟りの訪れは遠いものではない。12.18.1.8018 12 2018全ての物は変化するだけでなく、全ての物は他の何かの物に関連して存在す
る。従って変化と関連性が世界の光景を支配しているのである。16.26.2.719 12 2018人は、深き瞑想に坐し、恍惚とした感情が彼を包んで身体の深みに誘い、光
の刺激が彼を取り巻いている、初めての日を忘れることが出来るだろうか。
意識は更に深く沈み、自分が誰で、何処にいたかも殆ど忘れている。この世
界と自我に対して無断欠席した後に、ゆっくりとその世界に戻ることがどれ
だけ嫌なことだったか。15.23.7.14220 12 2018世間を放棄することは、単に一種の住まいを他の状態に変えることに過ぎな
い。私たちは意識に住み、その中で起こる全ての出来事を経験しているので
あって、どのような形であれ、姿であれ、それを放棄することは出来ないの
である…3.3.4.20, 巻21 12 2018自分の前世がどんなものだったかを知る必要は誰に取ってもない。その記憶
が表れたとしたら、それは異常な何物かになってしまう。過去世は、とっく
の昔に終っている時に、その過去の記憶によって現在のあなたが影響される
ことを自然は望んでいない。従ってあなたは前世の人生について悩む必要は
ないのである、そうではなく、現世に全力投球をして、それを出来るだけ価
値あるものにするべきである。1.9.0.2322 12 2018哲学は宗教が人に与える全てのことを与えてくれるが、それは更に多くのも
のを与えてくれる。より高き存在に対する信仰を回復させ、または支援し、
人生により高き意義を与え、困難な時に慰安と協力を齎し、他の人々に対す
る自己の扱いを高尚なものにするだけでなく、神、宇宙そして人の性格につ
いての深い神秘を説明してくれるのである。12.17.6.10023 12 2018今日、探求者は全世界の文化が彼に提供されていることを発見する。多くの
文明の叡智が、遥か昔に過ぎ去った時代より、時間的には最近の文明、また
は空間的には、より遠い所より与えられている。探求者の立場として、これ
以上幸運な方法があるだろうか。13.20.2.6824 12 2018… 啓発されていない人は、神が全ての供給者であることを認めることは出来
ない。彼は、金銭、肩書き、または権力を得ることにより、安全と幸せを見
つけることが出来ると信じている。啓発されている人は、それらの物も神の
元にのみ、存在していることを知っている 。8.12.3.67, 巻25 12 2018… 人類にとって可能である最高の種類の悟りとも言える哲学の真理は、古い
世紀に人里離れたところでひっそりと隠されたのと同様に、容易に入手でき
るようになるであろう…9.13.4.224, 巻26 12 2018智者についての動機や方法を全て検討してもほとんど役に立たない。彼が使
用した光は、普通の人々には否定されてしまうのである... 私たちは見えない
世界を信じ、悟りの日まで忍耐強く待つべきである、ある時、全てが明かさ
れ、全ての謎が私たちの満足する方法で解消されることに気付くであろう…16.25.3.387, 巻27 12 2018一度、この内的悟りを獲得したならが、修行者はそれを固持しなければなら
ない、何故なら世間の多種多様な勢力がその噂を聞き、それから彼を離そう
とするからである。14.22.7.628 12 2018彼の低位の自我と高位の自我の違いは、内的体験とそれに伴う思索により、
漸次に明らかになる。2.1.5.1329 12 2018「内なる神」への降伏が進み、心でそれが発展していくと、不安は鎮まり、
悩みは去っていく。そしてこのようなのんびりした態度は不当なものではな
い。何故ならこのような屈服のレベルは、聖なる力が、彼の出来事に具体的
に関わるレベルでもあるからである。12.18.4.15330 12 2018その哲学的運動はゆったりしていて、自由な物である。その強さは施設の数
によって測ることは出来ない。外観や堅固さはその教えや性格と一致しない
からである。しかしながら、組織はなく、宣伝もされていないが、もっと明
瞭なる運動より、勢力があり、意義もある。13.20.1.25231 12 2018
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