毎日
エゴが私たちから離れたとき、重荷が無くなったような感情、つまり好ましくないと思わ
れる状況から解放されたような感覚が起こる。この後、当然ながら、静かで満足するべき
喜びが続く。6.8.4.4711 12 2015啓発の瞬間は、愚かさと幻想のように見える人生の背後の何処かに真理が存在することを
証明する恩寵の証として、彼の人生において白熱のような記憶となって続いていく。14.22.7.1242 12 2015私たちが知る世界は、私たちが知ることが出来るたった一つの世界は、私たちの精神の中
でしかない。その第一の証拠は、深い眠りにより、その世界が精神より去ったとき、私た
ちにとってその存在はどこにもない、第二の証拠は、眠りより覚め、その世界が精神に戻っ
たとき、その存在を告げる私たちの五感も精神に戻ることである。13.21.2.1133 12 2015彼は自己の内部のどこまで迫るつもりか、あるいは新しい意識に覚醒する探求心をどこま
で持ち続けていくかによって全ては決まる。それはそこにある、まだ見えないがそこにあ
るのである。彼はそれを見過ごしてはならず、むしろ燃え尽きるまで限界に挑戦して突き
進まなければならない。努力は無駄にならないと約束されているのである。4.4.2.3324 12 2015彼らが無力な動物たちに対する同情心が少ないからと、肉食を止めないのであれば、どの
ような権利で神に縋り、慈悲を賜り、戦争を止めることを、祈るのであろうか。7.11.3.1695 12 2015瞑想と言う行為は、知力、意志と想像力を使用して正しく行われれば、それはインスピレー
ションの手段となり、瞑想を超えるエクスタシーともなる。それは霊的世界や芸術の世界
も含むどんな分野をも問わず創造的仕事の刺激となる。瞑想は仕事を始める前に実践すべ
きである。そのテクニックは瞑想が終了した後の啓発された姿勢または喜びを持ち続け、
それを消滅させないことである。そしてやるべき仕事を始め、そこにその態度を持ち込む
のである。そうすれば今まで以上の力と、能率の良さ、取り分け今まで以上の創造力によっ
て仕事は成し遂げることが出来るであろう...4.4.1.416, 巻6 12 2015精神はその真理そのものである、そこから派生する「物質」というようなものは必要とし
ない。13.21.1.717 12 2015ひとたび私たちがこの真理を知ったとき、眼からうろこが落ちる。私たちには限界がある
という誤った考えを捨てることが出来る。私たちは遠い将来に何らかの崇高な境涯を達成
するというような間違った考えを持つことを拒否する。私たちは高邁な「自己」が「今」
それを意識しなければならないと断固たる決意をするのである。私たちが何を待つという
のであろうか。「真理」の上に私たちの全ての思考を積んでみよう、そしてそこに固定し
てみよう、しかし、真理は私たちからは逃げず、反対に思考が分散し、大気へと消えてし
まう、そこに残るのは「自己」という美しさと崇高さのみである。15.23.5.2048 12 2015この道を歩む修行者は彼自身より遅れている他の人に対して直観と啓発のきっかけとなる
ような何らかのサービスを提供する、もちろん自身の能力と制約に従ってのことではある。
こため、彼はこの「修行」が何か、どんな「哲学」がその修行に有益であるか、そしてこ
れらが--日々の言語で--個人の日常の生活にとって何を意味し、どんなことを提供してく
れるのかについて、正確な知識を身に付ける全ての努力をするべきである。3.2.8.679 12 2015どのような解剖学者も思考を創造する部分を頭脳の中に発見することはない、彼は思考を
阻止し、歪め、または弱める条件を発見することが出来るだけである。これは、意識の原
理が、物理的身体にある頭脳が存在する以前に存在し、それが生きているときも、また死
んでからも存在するからである。13.21.1.11910 12 2015「長期修行」は、束縛となっている物や後ろ向きにさせている物は何でも放棄するよう呼
びかける、そしてそれらを放棄すれば、彼は「短期修行」の特に前向きな修行に真っ直ぐ
に進むのに自由になる。15.23.4.511 12 2015瞑想の実践は、瞑想者が本当の自身を体験し、その純粋な愛を享受したとき、そのクライ
マックスとなる。4.4.1.31512 12 2015彼は事実を重んじる範囲で科学者であり、真理を望む範囲で形而上学者であり、高位の力
を認める範囲で宗教家である。13.20.5.3913 12 2015この「真理」を垣間見るという祝福を経験したか、またはさらに進んで、そこに自身を確
立した者は、無言の交信によって他の者とその境地を共有することが出来る。また、それ
より低いレベルではあるが、言葉により、そこで体験した考えを共有することも出来る。14.22.7.21014 12 2015勿論、私たちは物質的な物を使用しなければならず、それらを放棄することはならない。
しかし、それらに執着することなしにそれらを使用しなければならないのである。他の人
たちと同様に私たちは人生における良き物を愛することは構わないが、その愛に捉われて
はならないのである。もし必要であれば瞬時の通知により、それらを捨てる覚悟が出来て
いなければならないのである。これらの物が私たちを縛っているのではなく、結婚や、富、
家庭への渇望が私たちを拘束しているのである。そしてその渇望は、結局のところ、思
考の連続した物であり、精神的想像の連続した物でしかないのではないか。15.24.3.16415 12 2015真理を発見し、悟りを開き、宗教的純粋さを獲得する能力について人が持つ自尊心は、エ
ゴを解き放ち、「内なる神」に接触するために必要な謙虚さを閉ざしてしまう。6.8.3.14816 12 2015真理を発見することに真剣な者は、彼らの環境が許す限り幅広く探求し、彼らの時間が許
す限り、それについて考えるであろう。12.17.6.3117 12 2015人が「内なる神」を否定し、それについて自身の見解より思考したときでも、実は、希釈
され、反射されたものに過ぎなくはなっているが、「内なる神」の力を利用して否定して
いるに過ぎない。彼は自己の心によってのみ、聖なる存在を否定することが出来る。何故
ならそれは既に彼の心に存在しているからである。14.22.3.40518 12 2015彼の行き先は彼の出発点でもある。しかし、彼は永遠の「精神」の中に生まれているのに、
永遠の範疇にはない時間が、何故彼を永遠性に到達させることが出来るのかという質問が
出て来るかも知れない。答えは時間がそこに到達させるのではない、それは彼が時間から
逃れることの出来る機会を望み、それを準備させる教育をするだけであると。エゴが「内
なる神」に完全に屈服したときに、それが可能であるということを言う必要があるだろう
か。12.18.4.8519 12 2015私たちは、私たちを公平無私な「内なる神」に開示した範囲に従ってのみ、個人的な幸せ
を獲得することが出来る。5.6.2.25420 12 2015彼が多忙な世間に戻り、俗事に染まらない力としてそこに住む最後の仕事は、苦悩を癒し、
盲目の人を導くことである。13.20.4.21221 12 2015教師の必要性は誇張され過ぎている。修行者自身の魂はそこに存在して、彼を魂に導こう
としている。また祈り、瞑想、学習や正しい生活習慣は、恩寵を発見するのに十分である。
もし彼が真理を信じる十分な信仰を持ち、その直感的ガイダンスに鋭敏に注意しているな
らば外部の教師は不必要である。2.1.3.27422 12 2015人生をいたずらに浪費していることを良心が抗議し、成就していないことについて呵責し
始める時が来る。2.1.2.26723 12 2015... どの人も他人を正しい言葉で支援し、彼らのために暗闇でマッチに火をつけることが出
来ず、またより良い人生の送り方について模範を見せることが出来ないほど、進化に遅れ
ている人はいない。13.20.4.218, 巻24 12 2015「山上の垂訓」は真にイエスの代表的教えである。世界の文学的表現において最高の位置
を占め、また人間として可能な限りにおいてキリスト教の実践的要諦を見事に表している。12.17.5.6825 12 2015イエスは容易で簡潔な文章で----本当の幸福な境涯—---天国は今、この瞬間、人間の内部
にあるという偉大なる事実を説いている。14.22.3.7426 12 2015「悟り」への道は段階的に進むものではあるが、現実のその瞬間は、人が通常生活してい
る暗闇より急激にそれを超越する形で唐突に訪れる。2.1.5.31427 12 2015世界は、世間の俗事より霊的価値に目覚めさせてくれる、覚知され、無私となった人々を
静かにそして心の底より渇仰している...9.13.4.335, 巻28 12 2015直感はそれを使用し、それに従うことによって磨かれる。
14.22.1.6929 12 2015自己以外の真の生命を知った人で、話術や執筆や行動でのコミュニケーション能力を持つ
人は、それについて他の人に伝える義務を持つ。しかしながら、その能力に欠ける場合、
それについて沈黙を保つことは間違いではない。何故ならラマーナ・マハリシが私に言っ
たことがあるが、「沈黙は話すことの一形態である」からである。3.2.8.15330 12 2015修行者は身体の死は意識にとって外的なものであることを学んだ。しかし、死が愛する人
の身体を奪うときは彼の信仰は試される。そのような時は、彼は愛する人が、人生の発展
した世界に進化したことを思いだすべきである。6.9.1.13331 12 2015
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