毎日
エゴから離れるという体験より有益で必要なことが他にあるだろうか。ある人にとって、
また時には喜びに溢れる体験だろうが、他の人に取り、また時には苦しみを伴うかも知れ
ない体験である。9.13.1.2941 12 2014哲学を何らかの既存の組織や社会的文化的組織、あるいはある集団と結びつけることを拒
否することは、自身の自由を確保し、同様の自由をそれを学習する人にも与えることにな
る。13.20.1.5192 12 2014... 見えない形でも見える形でも宇宙が存在しないという瞬間はない、従って今後も見え
ない形でも見える形でも宇宙が存在しないという瞬間はない。何故なら世界は突然の創造
から生まれるものではなく、時間をかけて生まれるからである。その長い歴史で宇宙が初
めて創造されたということはなく、従って初めの瞬間はなく、また終わる瞬間もない...13.19.1.56, 巻3 12 2014異なる宗教は人類を唯物論より引き上げるため、異なる方法を持っているし、またそうで
なければならない。12.17.6.84 12 2014彼は瞑想においても実生活の面においても、個人としてのエゴに対して限界を感じ始め、
それを避け、眼を開いていつも存在する守護神、「内なる神」の存在を認識する。その認
識した瞬間から「恩寵」を受ける。熟した果物が容易に取れるように次から次へと善きこ
とが現れる。15.23.1.495 12 2014初心者にとっては次々と際限もなく移り変わる思考の混乱を止め、集中力を涵養する努力
が必要だが、黙想を習得しようとしている熟練者にとっては異なる方法がある。彼は思考
の流れについて真剣過ぎるほど気にしたりするべきではなく、これも「内なる神」に任せ
てしまうという態度を取ってしまうのである。その結果すら神の手に任せてしまうのであ
る。15.23.7.2516 12 2014今後の時代に必要な理想的宗教とはどんなものであろうか。先ず、形の上で理性的である
こと、次に信仰を深める上で効果的であること、三番目は人格を向上し、行動を制する上
で力があること、四番目は現代の要請に素早く応えられること、五番目は社会のニーズに
柔軟であることである。12.17.7.547 12 2014もし、ほとんどの人が「内なる神」の奇跡が体験できなかったとしたら、それはその人た
ちが十分に自己を無くし、エゴを捨てていないからである。しかし理性で出来なくても、
感情でなら出来るかも知れない。愛に包まれて再度挑戦してみよう、そうすれば恩寵が訪
れるかも知れぬ。その力により、自身では捨てられなかったエゴを忘れることが出来るか
も知れない。14.22.5.328 12 2014低位の自己を制御できる者は、他の大抵の人が持つことの出来ない力や可能性、満足感を
持つことが出来る。5.6.1.1869 12 2014... 宗教に説かれている真実、善きこと、無私などに忠実であれば、天が味方をし、君の
仕事においても支援されるであろう。薄っぺらな預言者の皮肉などに騙されてはならない。
これら善きことの原理によって生きていく人は必ず世間から尊敬され、その代償として地
位や名誉、そして繁栄を与えられるであろう。従って心を楽天主義の枠組みにするように
努力することである、どのような困難が来ようともそれは敗退ではなく、勇気を奮い起こ
し、それらを克服する力があることを示す機会と捉えるへぎである。9.13.1.386, 巻10 12 2014否定的なことを考えない訓練に成功した範囲で人は不幸に会わないようになる。彼が個人
の感情からいらいらすることをしなくなったとき、身体や環境または関係性での悪しきこ
とはなくなっていく。7.10.3.5811 12 2014因果の法則と言う言葉は、反射の法則と言い換えたほうが良さそうである。何故なら全て
の行為はそれをした人に返ってくるからだ、全ての考えもその出所に戻る、まるで宇宙に
大きな鏡があるように...6.9.3.15, 巻12 12 2014修行者が十分に準備したとき、即ち人格を清め、低位の性格を屈服させ、知性を深め、直
感を涵養したとき、それらの能力を瞑想の高度のレベルで使用し、「内なる神」と至福の
交信が出来るようになる。その修行者に関与したことにより、これまで利益を得ていた他
の人たちは、今後の彼の本格的変貌による利益と比較したとき、今まで利益は極めて表面
的であったことを発見する...3.2.8.131, 巻13 12 2014精妙な精神主義を日常の現実的生活と、また燃えるが如き信仰の気高さを社会への義務と、
そして自己についての訓練を独善的にならない精神と統合させたのは王陽明の格別な功績
であった。10.15.3.13014 12 2014恩寵の奇跡はこれ以上ない深みにまで落ちた最悪の罪人でさえ、至高の高みの昇ることが
出来ることである。イエス、仏陀、そしてクリシュナが明瞭に言っている。12.18.5.8715 12 2014ある種の瞑想では思考はある位置を占めている、つまり自己改革、道徳観の向上、あるい
は形而上学的解釈をするときである。修行者の初期の段階ではその基礎を占める。しかし
熟練した段階、特に「短期修行」に入った場合はその態度は変えなければならない。修行
者は思考を超越し、思考は停止しているが、意識は残っている状態の静寂に入らなければ
ならないのである。15.23.7.23216 12 2014「内なる神」を追及する目的として修行者としての態度を取った瞬間、エゴと「内なる
神」は二つに分かれ、一つになることはない。しかし、そのような思考を捨て、全ての思
考が止み、心が「あの静寂」に入ったとき、心が「心そのもの」を理解できる。しかしな
がら、求道者が求めている物は求道者と同じなのだという理解がないときは、それも意味
はなくなる。15.23.1.2017 12 2014彼は自己の低位の感情を修行という祭壇に捧げなければならない。怒りや、欲深さ、欲望、
また攻撃的エゴなど、それらが発生し、様々な形でその醜い姿を見せたとき、その祭壇に
置いてしまわなければいけない。それらは少しずつそのような時、燃やされていくのであ
る。これが高位の自己に対する自己放棄の最初の意味となる。12.18.4.8718 12 2014自己を磨くということは道徳的なことばかりではない、もっともそれも含まれるが、それ
は準備段階のものでしかない。それはむしろ自己の考えを注視し、それがどこから現れ、
どこに行くのか、そして自己にもう一度戻り、そして最終的には真実の源泉――不変の超
意識――にたどり着くことである。4.4.4.20619 12 2014聖なる物へ惹かれれば惹かれるほど、世俗的な物には魅力を感じなくなる。かくして私た
ちを超えた何かを崇拝する能力を養うことはやがては欲望のない状態になっていくという
ことになる。12.18.1.11120 12 2014「自然」の二度の休息はその子供である私たちにも素晴らしい休息の瞬間を与えているは
ずである。 日の出は活動の準備を静寂の中でする瞬間であり、日没はその反対に心を癒
す瞬間である。ところが私たちは「自然」のこのような贈り物を大切に使用せず、いたず
らに時間に追われ、物質的な条件に押しつぶされてしまっている。3.3.7.121 12 2014悟達を求めそれに対して期待と希望を持つのは正しい態度である。しかしながらこの恩寵
がいつ与えられるかということは予告できない、従って希望には忍耐が必要だし、期待に
も持続が必要である。その間にも人格を陶冶し、教えに対する理解を深め、直感を養い、
瞑想を実行し、恩寵を祈り、さらに「内なる神の意志」にひれ伏する謙虚さを養う等、多
くの修行を持続しなければならない。3.2.5.5322 12 2014多くの時を経過し、いくつもの再生を経て、エゴから解放され「内なる神」による啓示を
迎えるという考えは、その考え方に幻惑されている限り正しい。しかし現象面ではなく、
真実を見る立場を取ったとき、それは間違っている。何故なら未来にそうなると同様に現
在でも私たちは聖なる存在なのである、大切なことは私たちが幻惑から覚め真実を見るこ
とである。15.23.1.2523 12 2014イエスが「重荷を投げ捨てよ...」と言ったとき、それは「短期修行」への徹底した勧奨
を意味していた。15.23.5.14424 12 2014様々な困難や気遣いのある「長期修行」から解放され、自由のある「短期修行」を発見で
きたことを喜ぼう。15.23.4.7725 12 2014「短期修行」の長所はそれに集中した者は誰でも罪悪感や、過去や間違い、また罪に対す
る罪悪感がなくなることである。15.23.1.16726 12 2014自己の罪に悩み、美徳に満足しながら「長期修行」をしている人は、そのどちらにも—ど
ちらもエゴの一面である--囚われず、「内なる神」を理解し、崇拝し、熟考する「短期修
行」の人に道を譲るべきだ。15.23.1.4827 12 2014あなたは長く所有していた財産を無くしたかも知れぬ、あなたの伴侶は恥もなく、あなた
を裏切った、あなたの敵は嘘に溢れたあなたの悪口を言いふらしている、そしてあなたの
作って来た世界は木端微塵になってしまったかも知れない。しかし、あなたが失っていな
い何かがある、あなたを裏切っていない誰かがいる、あなたの最大の長所を信じている誰
かがいる、そして不変で乱されていない内なる世界があるのだ。その物、その人こそ、あ
なたが自身の内に発見することができ、苦悩の時に頼ることの出来るあなた自身の「内な
る神」なのである...9.13.1.313, 巻28 12 2014多くの抵抗を重ねた後、最終的には疲れた老人のように神を信じ、自身の運命を受け入れ
ることを彼は学ぶ。12.18.4.2629 12 2014この修行がその人の人生にとって最も大切になったとき、世俗の幸福よりも大切になった
とき、その時こそ、「恩寵」が理屈ではなくその人の人生でも現実になる可能性がある。12.18.5.17530 12 2014何故なら全ての人類が新しい時代、より良き時代に差し掛かっており、古き時代の悪魔た
ちが、少しでも時間が残っている間に、邪悪な力と感情の地獄とも言える憎しみ、妬み、
攻撃性や野蛮性に人間を貶めようと獰猛な闘いを挑んでいるからである。7.11.4.231 12 2014
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