毎日
「内なる神」は、厳しい法則によって行動している、その通りだ、しかし、
愛がその法則の一部である。恩寵はいかなる原理を犯すこともないし、むし
ろ最高の原理を成就する。12.18.5.891 11 2016砂漠を横切り、ジャングルをかき分け、山に登攀し、大陸を横断する冒険と
は違うもう一つの冒険がある。それは人間の心の神秘的な奥地を求め、人間
の意識が働く最大の範囲を測定し、そしてその後、その発見やルートについ
て報告し、その他の人もそう望んだとき、その道が発見できるように、その
目標を指し示す。2.1.1.502 11 2016「短期修行」への転換は、「長期修行」を完全に中止するわけではなく、3
つの点で、「長期修行」に影響を与える。第一に、それに伴う苦役や訓練を
減らす。第二に、減少した作業を不安なく、緊張することなく、出来るようになる。 第三には、内的生活と外的生活についての過度な自己責任から解放
される----つまり過度にエゴに依存することからの解放である。15.23.4.583 11 2016哲学的知性は、知的能力を直感と結合させる。
13.20.3.84 11 2016集中を実践したことはあっても、明白な神秘的経験をしたことがないという
事実に、人は当惑する必要はない。集中だけでは十分でない。祈りと渇仰を
実践すること、人格を向上させ、欠点を除去し、意志を強くし、感情を浄化
することに絶え間なく努力することも重要である。このような方向に忠実
で、持続する努力を続けたならば、十分バランスのとれ、良く発達した人格
が養われるだけでなく、最終的には恩寵と「内なる神」のガイダンスを呼び
起こすであろう。3.2.5.645 11 2016瞑想で成功するには持続して実践することが他の一つのどの要因よりも重要
である。4.4.2.4046 11 2016私たちが私たちの聖なる生命を見ようとしたら、目指さなければならない唯
一の方向に向かおうとはしないで、外的事柄、ビジネスや快楽に絶え間な
く、没頭することを選択していたら、私たちは不幸にも自分たちが盲目であ
ることに、人生、神、または運を責めることは無益である。2.1.1.1417 11 20162人の人間が同じであることはないという知識は身体と心を指している。し
かし、これは霊的なもので、深い瞑想で発見され、経験される人の特質を除
外している。その最も深き意識の部分では、個人のエゴは消え、それ自身と
しての意識や、思考のない、世間を意識しないものだけが残る。これが
「私」という感情の源であり、これはその他の全ての人間に共通する同じ体
験である。この部分は決して死ぬことはなく、「神と人が一緒になるとこ
ろ」である。14.22.4.1218 11 2016詩編46の叡智----「静かにしなさい、そして私が神であることを知りなさ
い」----は、実験によって試すことが出来る。何故ならエゴが沈黙していると
き、私たちが待っていた啓示が囁かれるからである。6.8.4.2369 11 2016宇宙の隅々まで、そして人間の全ての経験を通して、変化に休みはないとい
う、いつも直面する証左にも関わらず、私たちは宇宙における不変性と人間
の経験における永遠性についてそのような感情を持ち続ける。これは本当に
幻想に過ぎず、単に幽霊にしか過ぎないのだろうか。答えはその二つともそ
の背景には寿命の来ない何かがあるからである。16.26.2.2110 11 2016素晴らしいことは、彼が聖なる自己といることを感得するのではなく、それ
がいつも彼と一緒だったということである。14.22.3.10511 11 2016如何なる行為でも最大の効果を得ようとした場合、適切なタイミンクが必要
である、しかし、神を想う実践はいかなる時でも--今--そしていかなる場所—
ここ—でも出来るただ一つの実践活動である。この単純な心の運動は、どの
ような進化の段階にいる誰にでも容易に実践できるものであるが、私たちの
最高の智慧者にとっても重要過ぎるものである。15.23.6.15012 11 2016彼が自身の深部に行けば行くほど、彼の行動は人々の提案には無関係にな
り、彼らの影響には抵抗力が発揮される。2.1.3.3513 11 2016求道者が哲学的な理想に完全に没頭しているため、高い境地の生活が毎日の
生活となってしまう時が来る。13.20.3.19214 11 2016カルマの法則から考えると、人は自己の行為や感情、そして思考に対してま
で、責任を持つことを学ぶため、育ち、成人を迎えなければならないことに
なる…6.9.3.56, 巻15 11 2016私たちは「真理」を発見しながら、それを発見する以前の私たちと同じ生活
は出来ない。だからこそ、「真理」は、垣間見る形で発見されるのである、
何故なら私たちは、私たち自身、即ちエゴから離れて長い間、生活すること
は出来ないからである。14.22.8.3116 11 2016私たちの魂は、私たちの心の直ぐ側に存在しているのに、それを感じる人は
ほとんどいないという現実は、何と言う苦い皮肉であろうか!2.1.2.16417 11 2016誰人であれ、人類に対して霊的、禁欲的、道理のある、または倫理的貢献を
出来るとしたら、その人はどの宗派に属していなくとも、神にも仕えている
ことになる。何故なら、その行為は「世界意識」と協調を保っているからで
ある。13.20.4.25818 11 2016何百万という人々がこの地球に住み、比較的短い存在の後、消滅した。彼も
例外ではない、彼が消滅する順番も訪れるのである。この恐ろしい事実に遭
遇して、思考は消えるか、宗教の庇護のもとに駆け込むか、またはこの壮絶
な宇宙のドラマの背景にある真理を発見しようと決意するしかないのであ
る。2.1.1.15219 11 2016個人的な存在感がなく、名前を持たず、認知できる顔もない何かが彼の内部
に存在する。それが「内なる神」である。14.22.3.28420 11 2016学ぶということは知識を受けることであるが、全ての他の真理の背景にあ
り、それらを超えているこの「真理」を学ぼうとする人は、自身の精神、
心、身体そして意志とともにそれを実行しなければならない。精神とともに
とは、彼の思考が最も深いレベルまで到達しなければならないからである。
心とともにとは、彼の愛が現在のレベルを超えて要求されるからである。彼
の身体とともにとは、その身体が聖なる霊魂の社だからである。そして意志
とともにとは、この事業が完成しない限り、彼はこれを中止することはでき
ないからである。13.20.3.521 11 2016誰でも哲学的生活について、十分な時間をかけ正しく試してみようとする人
は、それを放棄することはないのではなかろうか…2.1.1.171, 巻22 11 2016死んでから次の生命の誕生までの時間は、深い睡眠に似た期間に続く、夢の
状態から成り立つ。しかしながら、この状態から目覚めた時は死ぬ前の生に
対する記憶はなくなる。6.9.1.6123 11 2016枯れかかっている秋の葉は次のような悲しい思いを誘う:私たちはこの地球
上を通りすがる乗客に過ぎない。9.13.3.209, 巻24 11 20161つの問題や事態を高位の存在に任せて好結果が出なかったとき、失敗の原
因はその技法そのものではなく、それを使用した人にある。もし彼が、その
問題に対処することを避ける方法とし、またはその事態に直面するのを避
け、その結果、そこに含まれた教訓を避けるために、それを使用するのなら
ば、彼自身の成長のためには失敗したほうが良いだろう。そして、その教訓
を学んだという人ですら、本当に学んだのではなく、自身のエゴが満足する
方法でのみ学んだのであり、その他の部分は拒否している場合がある。その
体験の意味は、心の奥深く刻まれるべきであり、 学んだという主張が証明さ
れる前に人生に誠実に生かされていなければならない。9.13.2.263, 巻25 11 2016瞑想または祈りは、「全ての生きとし生けるものが幸せでありますように」
というような他者を思念するもので終わろう。4.4.2.41326 11 2016心が十分に発達したとき、私たちに存在する「内なる神」が遅かれ早かれ、
真理への渇望や人生、神そして人についての抽象的な質問を自ら創り出して
いく。2.1.2.19027 11 2016人の完全な物質的生活に対する満足感が一時的な物であり、それがあり得な
い物であることは、「内なる神」が存在することによって私たちが通常感じ
ているよりもさらに本当の事実である。14.22.3.14228 11 2016外的幻想を捨て内的真実を把握せよ。身体を自己と考えることを止
め、「内なる神」の意識を取得せよ。6.8.4.23829 11 2016彼が自己完成という聖なる使命とそれを実行しようとする意志の情けない脆
弱さを共に痛感したとき、恩寵の力を取り返し、それに変換する必要が論理
的に生じてくる。この状態で初めて彼はそれを心理的に受ける用意が出来て
いる。自ら恩寵を引き寄せることはできないが、祈りそれを待つことは出来
る。12.18.5.146, 巻30 11 2016
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