毎日
瞑想は有益であり、または支援となり、あるいは建設的な目的のために資す
ることが出来るが、瞑想を観想—--つまり、自身を消滅させることにより、
瞑想を、努力を伴う活動というより、努力を意識しない経験である観想に変
化させない限り、最高の目的に資することはない。彼自身の意志ではそれは
不可能だが、聖なる恩寵がそれを可能とする。4.4.1.2641 11 2015ヨガと瞑想により長期修行は彼の内部で内的「静寂さ」を発見する能力を開
発する。短期修行はそれに(1) 「静寂さ」が彼そのものであるという知識、
また (2) その「静寂さ」そのものであることを思い出す実践を加えている。15.23.4.682 11 2015... すべての事物には支払が実行されなければならない という格言は市
場原理にも真理であると同様に霊的世界でも真理である。「高位の力」に彼
の生命を降伏することは彼のエゴを降伏させることを意味する。それを完全
にそして一瞬にして実行することは、ほとんど不可能なことではあるが、部
分的または漸次にと考えた場合は、そうでもない。エゴのある部分、例えば
欲望などは、エゴ自身を否定することに成功する以前でも、否定することが
可能である...12.18.4.137, 巻3 11 2015彼が内奥の自身に没入し、外の世界から抽象の世界に入ったとき、顔の皺は
幾分硬直し、目はほとんど、または完全に閉じられる。 騒がしい思考から
思考のない世界に磁石のように引き入れるのは他でもない魂それ自体である。15.23.7.624 11 2015喫緊の仕事は「内なる神」の存在をさらに知ることである...
15.23.6.238, 巻5 11 2015身体は、実はその主体者である心にとって対象物である、身体だけでなく、
エゴが考えたり、または感じたりすることも対象物となる。このエゴが、こ
の対象者自体が、さらに高位の心にとっては対象物として見られるというこ
とを理解することは、容易ではないが、必要なことではある。6.8.2.676 11 2015彼の「内なる神」に対する関心が深まるにつれ、世間での事物に対する執着
は欲望としては損なわれていき、それらに対する興味も穏やかなものとなっ
ていく。15.24.3.2747 11 2015世間には二種類の人しかいない--意識に目覚めていない人と目覚めた人であ
る。前者は自身の小さなエゴとまた大きな欲望しか知らない。後者は彼らが
「内なる神」の存在とともに自身も存在しているのをいつも知っており、そ
の偉大なる平穏を享受する。16.25.2.1528 11 2015私たちは、その慈悲心が十分に広大で私たちを理解し、その力は十分に発達
していて私たちを援助してくれる存在と深い内的関係を築くことが必要であ
る。彼が死んでいてもそれは無関係である。2.1.6.789 11 2015世間は存在していないと言うことは真理の原因を理解することにも真理を求
める人にもその助けとはならない。それは存在するが、「物質的にではなく、
精神的においてのみ」と付け加えることをその肯定の条件とすることは、経
験を正確に描写することでもある。夢は思考の連続として、夢見る心に存在
しているが、その世界は物質的ではない。13.21.3.410 11 2015... 私たちは行動と休息、労働と瞑想、積極的であることと受動的であるこ
と、この交互の生活にバランスを確立することが必要である...13.20.1.325, 巻11 11 2015短期修行の実践の基本は、心は、そこに齎される類似の色を取り入れていく
透明な水晶のようなものである。心をエゴより離反させ、またそれを改善す
るということからさえも離反させて、「内なる神」へと向かわせ、結果を求
めていくのである。15.23.1.5912 11 2015... 私たちが霊的な光を求める修行のとき、ほとんど直感的に振り向こうと
する拠り所は私たちの外に求めてはならない。私たち自身の心の中にそれを
求めなくてはならないのである。10.15.1.325, 巻13 11 2015聖人は経験豊富な求道者や熱心な求道者全てに自身の経験から得た神秘的体
験とその知識を喜んで披歴する、そうすることにより彼らが、聖者の苦闘と
現在の成功より利益を得させようとするのである。16.25.4.11414 11 2015彼は恩寵を現出するためにはほとんど何も出来ない、しかしそれを妨害する
物を除去することの多くは出来る。3.2.1.3515 11 2015人の限界のある心は無限の力を持つことが出来ないのは小さな円が大きな円
を含むことが出来ないのと同じである。二つの円が合流する時、そこには自
己中心、自己保全の本能を放擲する自己降伏、全面的降伏がなければならな
い。12.18.4.12616 11 2015彼は無限の世界からの大使であり、彼ら自身の住まいである高きところより、
全ての人に派遣された特命大使である。16.25.3.1217 11 2015彼の心において「内なる神」が何らの障害にも会わなかった場合、その開示
は完全なものとなる。しかし、それらの障害に会う程度によりその開示は不
完全なものとなる。心は、「内なる神」に導かれるように十分に鋭敏でなけ
ればならず、またかかる導きを正しく無私に解釈するため、十分に純粋でな
ければならない。11.16.15.14318 11 2015「内なる神」が転生するというのは誤りである。それは転生しない。その子
孫である—エゴが--転生するのである。6.8.1.23219 11 2015彼は眼前に絶えずゴールについての考えを持ち続け、瞑想において「内なる
神」を主要な目的意識とする。これが「短期修行」の目的であり、成功する
前に、「長期修行」において思考を制御する修行をしなければならない理由
である。15.23.4.2020 11 2015聖なる存在は覚者が眠りについたときに去り、目覚めたときに戻るというこ
とはないし、彼が夢を見たときに去り、それから覚めたときに戻るというこ
ともない、いつも存在しているというのが真実である...16.25.2.175, 巻21 11 2015人の注意力が外に向かい、感情や欲望の高まり、論理的知性の狭さと頑固さ、
そしてエゴの執着心等がそれを妨害しなければ、光が全ての人の意識に今で
も入り得る。だからこそ、人の成長にとり、--「長期修行」での特別な訓練
により—これらを除去することが欠かせないのである。3.2.1.4322 11 2015男性も女性も釈尊が立ち上がり、イエスが去る以前から悟りを開いていた。
今日においても、また将来も同じように悟りを開くであろう。啓発された教
師は次々と生まれるが、全ての人の「魂」は永遠である。12.17.1.9723 11 2015恩寵の光が彼に注ぎ始めるとき、「内なる神」へと覚醒することに妨害し、
反対する傾向性、癖、動機や欲求などに気づく。12.18.5.30724 11 2015彷徨う思考は止まり、意識は落ち着く、次の段階は—もし彼が既にそれを目
標にし始めていた場合—聖なる存在に対して渇仰と献身と愛によってそれに
向かうことである。彼がこの内なる集中を続けたとき、意志による努力が容
易になり、やがてその努力が必要でなくなる。この時点で内から湧き出でた
何かが表面に現れ、彼に取って代わる。彼は完全に静けさを保ち、受身で、
それを受け入れなければならない。4.4.1.27425 11 2015終りに到着するために、終りから始めるというのは「短期修行」の逆説であ
る!15.23.1.1526 11 2015エゴがその悪徳で彼を罠にかけることが出来なければ、今度はその美徳でそ
うしようとする。彼が十分に成長を成し遂げた時、狡猾かつ無分別に霊的自
尊心をくすぐられる。かれはその成長により、他の人よりも自分は違うのだ
と思う過ちをいつの間にか犯してしまう。この信念が強くなり、それが持続
すると、つまり自惚れという病がその治療を必要とするとき、落し穴が他の
人により無意識のうちに掘られ、彼のエゴは彼をその穴に直行させてしまう。
この失敗による苦しみの中で、彼は謙虚になるチャンスが与えられるのであ
る。7.11.2.5527 11 2015私たちは、あれやこれやが幸せを齎すと思っている。しかし、少数ながら幸
福な人は瞑想し心が無になっている時こそ、最も幸せだと知っている。15.24.1.9128 11 2015意識が、有能な指導者により、または直感的理解力によって、この経験を受
け入れる準備がされていない時、身体からの離脱は解放を予感する喜びから
始まるが、危険な破局への驚きの感覚に終わってしまう。知識と勇気がとも
にここでは必要である、そうでないと身体から急激に離脱することに伴う過
程に対する抵抗が生まれてしまう。15.23.7.7729 11 2015この「無」に入る状態は一種の死である。全てが彼からもぎ取られ、彼は何
物でも無くなり、何も所有していない、しかしこの喪失を完全に凌駕する一
つのことを感じる。彼は「内なる神」の存在を感じるのである。15.23.8.9830 11 2015
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