毎日
もし彼が自身の心を何とか鎮め、空っぽにすることに成功したならば、次のステップは中心部を発見するこ
とである。15.23.8.61 11 2014... 私は無意識のうちに前世での能力を思い出し、それを再び使っている。これが可能なのは私が「意識」
だからである。意識のみが連続することが出来る。いずれの分野での何らかの能力は無からは生じない。こ
のような能力を表現する人は自身の深い部分から記憶を思い出しそれを繰り返し使用しているのである...6.9.2.89, 巻2 11 2014「内なる神」を正確にまた厳密に定義することは出来ない。それを描写することは出来ないが、その効果を
描写することは出来る。「内なる神」の存在に対する感情とそれを覚醒する方法は、その前者を経験したこ
ともなく、後者について学んだこともない人のために、ともに描写することは可能である。14.22.3.1883 11 2014さらに、他に対して与え、またして上げることはカルマの力により何らかの形で必ず私たちのところに返っ
てくる、そこで彼が人類に尽くそうとする理想を持続して涵養していけば、同じ目的を持つ人からの支援を
得ることが出来る。3.2.8.1234 11 2014この修行の目標が真の実在の発見だとしたら、そこには人間としての完全なる成熟や、自身の最高の境涯の
実現、隠れた資質の開発が入るはずであり、また入れるべきである。2.1.5.985 11 2014「啓発」は、一部の人にはゆっくりとだが、大抵の人には速やかに消えてしまう。しかし、人生において大
きな可能性があり、自己の中にも素晴らしい人格があることを直感させてくれる。14.22.7.236 11 2014... 従来の行動を続けていくことはエゴの支配を永久にしてしまうだけである。しかし、それを拒み、静け
さに沈むことは、内的空間をつくりだし、高位なる自己がそこに入り、私たちを通じて高位の自己が仕事を
してくれることが可能となる。これが直感に裏打ちされた行動になる。15.24.4.74, 巻7 11 2014自己の修行の道程にある障害を取り除けるのは自分自身しかいない。
3.2.6.228 11 2014その他の全ての瞬間を脇に押しのけ、その後、永遠に記憶に残るこれらの自発的霊的啓発は、それらの瞬間
を私たちが体験出来る聖なる空間を持っていなかったら、生まれることはなかったはずである。その存在こ
そ、いつも、そして時に、私たちが霊的に最高な至福を味わえる感情を可能にしている。14.22.3.219 11 2014... 夢を見る心によって投影された苦悩する人のそばには夢見る人自身が立っていることになる。彼は実際
には何の苦しみも感じていない。同様に現実の世界で苦悩する人が心の奥深く入っていったとき、現実の世
界の苦しむ自身を投影している深部での自身は夢のときのように全く苦しんでいないことを発見する。しか
し、このことを実現するには、目覚めた後は夢の立場から完全に離れていることが出来るのと同様に、現実
の立場から完全に離れることが出来なければならない。そして忘れてはならないことは、現実の世界の自身、
夢の世界の自身、そして深部での自身の3つは1つの同じ心の状態で、それが違う立場になっているだけとい
うことである...13.19.3.47, 巻10 11 2014「啓発」は長い眠りの中で目を覚ました一瞬間と比較すると最も適切である。
14.22.4.711 11 2014それぞれの人は自由という概念に気づくまでエゴに囚われている、そして自己改革を始める、やがて恩寵に
開示され、「短期修行の道」に入らされる。6.8.4.41512 11 2014「長期修行の道」の賛同者は「悟り」が可能となる前に心は陶冶され、清らかになっていなければならない
と主張する。「短期修行の道」の賛同者は、エゴを否定し、高位の自己を確信するだけで十分だと主張する。
哲学者は明らかにされた事実を観察と調査によって検討し、獲得される「悟り」が永続的なものだけではな
く、完璧なもので何不足ないものにするためには、それぞれの方法は、統合されなければならないと結論づ
ける。15.23.5.16613 11 2014霊的発達を遂げながら、ある程度の世間的な成功を目指すことは悪いことではなく、いやそれどころか全て
の点において正しい。しかし、そこで気を付けなければならないのはその成功は自身の内的成長をないがし
ろにして獲得するものではなく、またそれは修行者としての倫理的原理を侵害していないということである。3.2.7.17414 11 2014「一瞬的啓発」は忘れられない体験であるが、それは十分なものではない。それは未来の可能性を示し、新
しい境地を見せてくれはするが、その体験を今後の毎日の生活と自己の全人格にわたって投入しなければな
らない。このためには、時間と実践、忍耐、用心深さ、自己訓練や更なる感受性が必要となる。14.22.7.23215 11 2014私たちは時間のないことを嘆く。しかし、私たちの行動を厳しく吟味したとき、また予定をあらかじめ組ん
だ場合、何らかの活動は不要であり、他の活動は無益であることを発見するであろう。これらの活動は私た
ちの時間を奪うだけでなく、瞑想のために必要なエネルギーを奪い、それを困難にするか、あるいは不可能
にしているのである。3.2.8.116 11 2014外の世界では私たちは残酷な闘いと悲しむべき紛争の真っ只中で人生を送らなければならない。何故なら私
たちはこの宇宙におけるカルマを分かち合うからである。しかしながら、内面ではこれと正反対で深き静け
さと聖なる平和感また崇高なる安心感に生きることが出来る。私たちが喧噪の中で生きていようといまいと、
根本的静寂はいつもそこに存在している。故にこの修行の目的の一つはその存在に気付くことである...15.24.0.2, 巻17 11 2014私たちは他の地球ではなく、私たちが思考、感情、行為という種をまいたこの地球上に戻ってくる、これら
の収穫を刈るのもこの地球上なのである。自然は秩序があり、正確であり連続している。6.9.2.21418 11 2014何かを見たときに起こることは二つの眼球の湾曲した高感度網膜に作成された二つの画像である。投影され
た画像が---対象固形物その物ではない--- あなたが直接知ることの出来る全てで、それがあなたが見るこ
との全てである。あなたが実際に住み、移動しているこの世界は結局、画像の世界に過ぎないのである。13.21.1.1519 11 2014あなたがいつもの生活の中で、また他人との関係性の中で、毎日の仕事をするとき、または苦労したり、喜
んだりする時間、またはその他のどんな時間にせよ、「内なる神」を思い起こしなさい。4.4.7.720 11 2014「内なる神」は全ての人にとって精神的概念というだけではなく、いくばくかの人にとっては推進力でもあ
る、それを信ずる人にとっての崇高で至福な感情というだけではなく、エゴという重い施錠を挙げてしまっ
た人にとっては連続する生命の体験である。14.22.3.20221 11 2014「内なる神」と交信する能力は全ての人にあり、それは共通するものである。しかしながらそれは、同じレ
ベルでは存在しない。再生の教義を信ずる人にのみ、その不平等の説明は出来る。6.9.2.9322 11 2014静けさには魔法のような力がある。それは癒し、回復し、治癒し、教え、案内し、そして混乱と騒乱を秩序
と調和に替える。14.22.3.10723 11 2014内に深く入れば入るほど、自己の成長が秘めたものであると感じるようになる。あまりにも神聖なのでそれ
について語ることも出来ないのだ。15.24.4.20824 11 2014私たち自身をして私たちが真実であり、いつも把握し、望み、新しい幻想や誤った考えを作り出していると
信じさせている。このエゴが狡猾なやり方で真実の発見を遅らせているのである。6.8.4.6625 11 2014高位な覚醒は短い時間で落下し、長い間飛ばされてしまう花粉のようである。しかしながらこの瞬間は彼の
性格を妨害しているものを除去し、欠点を穴埋めするためには使われるべきである。これが出来ると霊的な
自己に目覚め、その都度、高位な覚醒に瞬間的に戻るようになる。14.22.8.7326 11 2014直感は「内なる神」から来たり、またそこに戻る。
14.22.1.3427 11 2014古来からの大抵の伝統的教義や何らかの霊的教義を有する新しい組織はほとんどの人にとって初めは有益で
ある。だがいつも有益かというとそうとは言えない。それらの教義にはそれぞれ限界があり、それがその後
の成長を阻害することもある。2.1.4.528 11 2014夢の世界での感覚的体験は身体の五感を全く使わないで経験される。夢には眼も光もなく、色が付いている、
手で触ることもなく、対象の物体もないのに形が見える。このことは「心」がそれ自身で独立しており、物
理的原因から分離していることを物語っているのではないだろうか。13.19.3.5729 11 2014私たちは潜在的に可能性がある存在に現実には必ずなる、再生はこの原理によって進む。
6.9.2.21030 11 2014
The notebooks are copyright © 1984-1989 The Paul Brunton Philosophic Foundation
This site is run by Paul Brunton-stiftelsen · info@paulbruntondailynote.se