毎日
意識の高みに位置した高尚でより賢い人々が大衆の中より抜け出てくる。か
れらの人数が今日は少な過ぎるのであれば明日は増えていくであろう。16.26.4.2331 11 2013生きていても見えるものと見えないものがある。意識の上では何物も生存を
失ったり、破壊されたりすることはない、そうなるのは身体だけである。6.9.1.1762 11 2013薔薇の美しさや夕日の豊かさを見て人の美的感覚や詩情は無意識に「内なる
神」の偉大なる美を思い起こしているのかも知れない。3.3.6.383 11 2013...究極のゴールは、全てがその部分に過ぎない真実が一つしかないこと、
そして個人のエゴが分離しているというのは表面的なことに過ぎないことを
発見することである。この真理は意識の一体化ということで証明されている。
このような発見の初めの果実は必ず全ての生きとし生けるものへ生命を奉仕
することであり、宇宙の福祉に絶えざる奉仕をすることである...2.1.5.92, 巻4 11 2013ほとんどの人が価値を見いだせず、ほとんどの人が見つけることが出来ない、
それにも関わらず探究するのに最も価値のあるもの。それは何だろうか。そ
れは、ひとたび発見されたなら決してなくならず、見ることができたなら愛
し止まないもの、またひとたび感じたなら人の最高のものを覚醒するもので
ある。2.1.5.1015 11 2013...魂を発見するために私たちは地球に生を受けた...
3.2.8.101, 巻6 11 2013私たちがその「存在」を感得する力を得ることが出来たなら、それは静寂の
中で私たちの人格を改革し、作り直してしまうだろう。感得する度にその作
業は進み、あるいは今までの作業はさらに統合されるだろう。14.22.7.807 11 2013瞑想の最高の形は時間を超えて私たちを「永遠の今」に引き上げることであ
る。15.23.8.1498 11 2013東洋の美しい華、蓮華は私たちが目指すゴールの象徴としてよく使われる。
汚泥の中で育つのだがそれに汚されることはない。水の中に立っているが、
それに汚されることもない。色は純白で蓮華の生息地である汚れた環境と際
立った対照となっている。
そのように修行者の内的生命は、その外的生活が必然的に最も物質的な環境
の中、あるいは最も世俗的な人々の中で行われていたとしても、穢れを知ら
ず、汚れず、清らかなものでなければならない。2.1.5.1009 11 2013精神の働きがなかったら、私たちは見たり、聞いたり、触ったりすることが
出来ない。しかし、精神は今度は「内なる神」なしには機能したり、あるい
は存在すら出来ない。14.22.3.24210 11 2013彼は今や、外での出来事は彼の思考の内的流れにしばしば関連していること、
また内的変化がしばしば外的変化を創造するという以前に見えなかったもの
を見ている。13.21.5.4111 11 2013プライバシーは、このような騒がしい時代には大変な恩恵であり、ほとんど
贅沢とも言える。他人に邪魔されずに生活ができること、他人に妨害されず
に自己の思考を、全ての思考の至上なるもの、つまり「内なる神」の発見に、
集中できることは、まさに満足そのものである。3.3.5.5112 11 2013「内なる神」より発せられる喜びは癒しの力を持つ。それは心配事を消滅し、
ノイローゼを克服してくれる。14.22.3.15213 11 2013...修行者は(あたかも可能であるように)その特定の全ての考えを捨てろと
か、あるいは意識を滅却しろとは要求されない、そうではなくその不完全さ、
不満足さ、欠点、卑しさ、罪深さを認識することを要求され、その認識の結
果としてそれらを放棄し、代わりに高位の自己、完全さ、祝福、善意、高貴
さ、そして智慧を認識することを要求されるのである。何故なら低位のエゴ
では平和を決して知ることはできず、聖なる自己によってのみいつも平和を
知ることが出来るからである。14.22.3.108, 巻14 11 2013エゴは子供時代から大人の時代へと進み、目覚めているときから、夢のとき
まで進んでいく、しかしその動きは円を回るだけである。自由、真実、ある
いは平和へとは進んでいかない。6.8.3.2415 11 2013精神は、昔からの幻想や時間に囚われた偏見と徐々に別れを告げるが、その
進歩は遅々たるものである、しかし運命の日、最高の啓示を一瞬の閃光によ
り勝ち取り、真理は突如勝利する。3.2.2.9216 11 2013聖なる力は家庭や会社には存在しないのと同じように教会や修道院にも存在
しない。もしそうでないとしたら、それは私たちが他の場所よりもその場所
にいるときのほうが、より注意力を注いでいるからである。3.3.4.217 11 2013思春期に体験する霊的経験は霊的修行に旅立つ可能性を示唆している。しか
しながら、彼は異常なオカルト的経験を好むのか、あるいはあまり劇的でな
く、ゆっくりとした聖なる魂の成長を目指すのかを決めなければならない。
初心者は同時に二つのゴールを目指すことはできない。そしてより高いゴー
ルを目指すときにのみ、進化した神秘家の支援を得ることが期待できるので
ある。2.1.5.11718 11 2013私たちがこの矛盾する本能の混乱状態と変化してやまない生命の傾向性の中
に自己を見ようとするとき、私たちが見出すのは混乱だけである。これらの
ことは 意識の内容であり、意識の機能ではない。6.8.1.9919 11 2013人はときにこの高貴な自己の中で隠れているのを感じる。これは文字通り真
実である。だから私たちはそれを「内なる神」と名付ける。14.22.3.18020 11 2013それは新しい希望を与え、新しい勇気を与え、また困難を克服する道筋を与
えてくれる。だからそれを瞬き見るだけでも空に架かる虹のようなものであ
る。聖なる愛が世間にも彼自身の背後にもいつも存在していることを思い出
させてくれるのである。14.22.7.10021 11 2013ヨガについての最も分厚い本は実際の目的として何を教えてくれるか、君の
思考を静かにせよということである。4.4.3.122 11 2013人はまれにしか接触できないもの、至高のものであり、忘れることが出来な
い瞬間とも言える自身の本質を究明しなければならない。それは「完成され
たもの」であり、いつも求めていても外の世界では決して見つけることの出
来ないものとして魅了されるものである。2.1.5.9523 11 2013多くの人たちが啓示について垣間見る経験をするが、このような経験につい
て学習したり、教えられたりすることがなかったため、何が起きているか知
ることが出来ない。14.22.4.6324 11 2013...問題は「内なる神」を発見し、その後は「内なる神」にエゴを支配して
貰えば良いのである。これにより、エゴは殺戮されず、元の低次の場所に戻
されるのである。しかし、人は先ず「内なる神」を意識しなければならず、
それを現実に生きている存在として感じなければならない。また昼も夜も、
起きているときも寝ているときも、それを続けなくてはならない。それがゴ
ールである...2.1.5.89, 巻25 11 2013何故ならその高位の意識にあり、それと同一となった人にとって、エゴは時
間と空間を行き来する単なるチャネルとなる。それは悟っていない彼自身で
はなく、その意思に従い、それを表現する彼の補佐役となる。6.8.1.21026 11 2013人の奥底には発見されることを待っている「何か」がある。その何かは人が
十分に奥底に入り込んだとき、あるいは恩寵が許してくれたとき、またはカ
ルマがそれを与えてくれたとき、自ずとその真実を表してくれる。14.22.3.7527 11 2013...哲学的求道者は「啓示」を絶えず思い起こし、それを自己自身を変革す
るために利用し続け、決してその想いを失わない。14.22.8.88, 巻28 11 2013的確に訓練され、また学習の行き届いた修行者は二つの道が精妙に混合され
ている。このことはバランスが整っていると言われた場合の意味でもある。
この結合より「内なる神」の輝かしい意識を反映した新人が「第二の誕生」
として生まれる。3.2.5.16329 11 2013...このゴールを獲得するのは容易ではない、しかし希望を捨てることは拒
否しなければならない。道それ自体は正しい、その道と連携しながら修行者
は世界で最大の力と連携していくのである。2.1.5.85, 巻30 11 2013
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