毎日
初めの段階として神を信ずることは良いことである。信仰によって次に神に
近くなることも次の段階としては称賛される----しかしそれはまだ十分ではな
い。私たちの中に神へのリンクがあること、そしてそれは人とは大違いで、
神のような性格を持つこと、それを知るさらに高邁な仕事を成就することで
ある。2.1.5.3261 10 2016… 人の個性は彼が到達できる聖なる状態の時でも明瞭に確認することが出来
る…16.26.4.257, 巻2 10 2016エゴはそれに よって 意識することが出来る心とは同じでない。弛まぬ努力
によってこのことを理解した人は魂の住処の初めのドア―を開いたと言える。6.8.2.653 10 2016彼の心が絶えず「真理」として求めている「内なる神」に戻ることにより(無
声のマントラのように)、内部での変化が起きる。15.23.6.2244 10 2016宗教が大衆に用意するシェルターは、哲学が少数の人に用意する強さと同じ
ことである。12.17.6.1585 10 2016その素晴らしき境地においては、緊張感、恐れによる混乱、不安定さからの
苦しみは消えてしまう。どうしてなのだろうか。何故なら現存する特定の問
題は「内なる神」に引き継がれてしまっているのである。また、その平和な
境地では否定的な考え方は持つことが出来ないからである。このことから、
私たちは日常生活で素晴らしい方法を推論できる: すべての問題を自分の心
より取り除き、それらを「内なる神」に任せてしまうことである、しかしそ
れは、それらに向き合うことを拒否するという間違った方法によることでは
ない…12.18.4.195, 巻6 10 2016全ての否定的な心や感情は破壊的である。それは身体の器官を傷つけ、その
機能を阻害する。このような状態が続くと潜在意識に入り込み、病気となる。
どうしてそれが可能かと言うと、身体の自律的機能を制御している交感神経
系は潜在意識の影響を受けやすいからである。7.10.3.497 10 2016私たちが知っていることはあまりにも少ない、だから私たちは謙虚になるべ
きである。だがその少ないということが、最も重要なのである。何故なら私
たちは「内なる神」は 存在している のを知っているからである、また同時
にエゴの混乱からその静謐への道は価値あるものであり、また善、純粋さ、
祈りそして瞑想がそれを見出すのを支援してくれるのを知っているからであ
る。14.22.4.1218 10 2016神はあなたの存在そのものにある。神をあなたから離れたものとして捉え、
あるいは時間的にも距離的にも遠いものとして捉え、またはあなた以外の、
またはあなたから分離されたものとして知ろうとすること----それは真の「方
法」ではない----不可能である。イエスはその秘密を明かしてくれた、 神は
あなたの中にいる。16.25.1.509 10 2016… 今日、この地球上の大気を貫いている力があり、それらは新しいインスピ
レーション、新しい考え方、そして人生の新しい生き方を要請している…8.12.2.208, 巻10 10 2016智慧は私たちの修行を「長期修行」から始めるように薦める。私たちがそれ
をしばらく経験した後、「短期修行」を加えることができ、交互に優先順位
を変えることが出来る。この断続的な方法により、一種のリズムをつくるこ
とが出来る。人格の向上は鋭敏さという直感に繋がる扉を少しでも広く開け
てくれ、直感力の向上は人格の向上を支援してくれる。15.23.5.17411 10 2016人々が真に神を崇めたかったなら、その代理人として、彼らの心の内に存在
する「内なる神」を崇めることにより、最高に神を崇めることが出来る。12.18.1.4812 10 2016彼らの使命はパイオニアとして働くことである。しかし、パイオニアとして
成功するには、勃興する新しい状況に対処できるように、古ぼけた考えを忘
れ、死にかかった因習から自由になる勇気を持たなくてはならない…2.1.3.195, 巻13 10 2016師匠と弟子が見かけ上、似ていることは、その関係性を構成しているとは言
えない。弟子が感情移入により、先達の考えや感情の何かを捉え、それを蓄
積しない限り、弟子は外見上は何をしていようとも、師匠に関係があるとは
全く言えない。大切なのは師匠と言う人間ではなく、彼の「思想」である。16.25.5.22114 10 2016もし教会が、「神」を発見する唯一の場所として、自己の内部を見ることを、
信者に推奨したとしたら!14.22.4.19815 10 2016「内なる神」の存在を認める方法は次の一言で要約される「それを愛せよ」
と。深く呼吸を吸い込んだり、またはゆっくりと息を吐き出したりし、頭で
逆立ちをしたりして…認知することは不可能である。聖なることを長い間、
研究しても、それらを鋭く分析してもそれは不可能である。愛を初めにする
ことである…12.18.1.78, 巻16 10 2016哲学は自らを弁護する必要はないし、また自身を説明する必要さえない。そ
れは完全に成長し、それを受け入れられるようになった人たちのためにのみ
存在する。彼らは議論することもなく、その価値を理解し、その真理を見抜
いている。13.20.2.15317 10 2016… 男性が過去に女性を深く愛したように自身の魂との恋に陥って初めて、そ
れを発見するチャンスが訪れる。宗教的献身の精神で間断なく高位の存在を
慕うことは、4部門から構成される修行(神秘的瞑想、形而上学的考察、性
格の浄化と利他の実践)の不可欠な一面となる。 悟りの実現を恋願う姿勢は
全ての祈り、尊崇、集中心や瞑想を貫いていなければならない…3.2.9.67, 巻18 10 2016… 私たちは付き合う人によって影響を受ける、犯罪者といつも一緒にいる人
はやがては自身も罪を犯しやすくなる、霊的な心を持つ人を友人として求め
る人は霊的な成長を遂げやすい…16.25.5.274, 巻19 10 2016300年以上も前、1人の素晴らしい女性がイエスキリストをその言葉通りに
信じた。彼女は全ての情的力を渇仰と瞑想に注ぎ込み、1つの簡単な方法に
より、高い境涯に辿りつくことに成功した… 彼女の理論は「静寂主義」と呼
ばれるようになるが、それは彼女が人々に個人的な思考や感情を鎮め、その
背後にある無私の天、即ち内部にある天国を知る方法を示したからである…12.17.3.121, 巻20 10 2016「幸いなるかな心の貧しき者よ」とイエスは言った。彼は何を言わんとした
のか。神秘的な意味で「貧しい」とはエゴによる所有が無くなっていること
である、つまり、エゴから自由なのである。6.8.4.19621 10 2016神のことをおぼろげながらも信じていても、神と自身との距離があまりにも
遠すぎるため、宗教から遠ざかってしまった人々も、神があまりにも近くに
おり、私たちの中にいることを知ったとしたら、驚愕するであろう。12.17.3.6422 10 2016精神分析医はいつも忙しそうにエゴの研究を続けている、かくして可哀想な
患者はエゴに捉われ続ける。しかし、「内なる神」に言及することが彼の脅
迫観念を取り除くのに大きな支援となる可能性がある。7.10.4.7223 10 2016エッセネ派の権威であるエドモンド・ゼーケイ教授は、アラム語とギリシャ
語に通じている。教授の執筆はバチカン及びその他の蔵書にある古代のスク
リプト に基づいている。氏の翻訳、「エッセネ派ヨハネ福音書」で、外典に
もバイブルにも載っていない文言を発見した。 その段落はまさに金色の光に
よる大波を私に与え、私はそれに圧倒された。そこではイエスが食べるため
に動物を殺すことを禁じていた。私はその時から肉を食べるのを止めた。そ
の欲望すらその瞬間から無くなっていた…14.22.4.198, 巻24 10 2016… 人はその胸部に聖なる存在を所有している。
16.26.4.237, 巻25 10 2016自己を無にするとは、エゴに対する執着も含め、全ての執着より離れてしま
うということである。見方によっては生身の身体が無くなってしまうという
ことでもある。12.18.4.12726 10 2016以前よりはそれを受け入れる人数は増えたが、哲学の時代はまだ来ていない。
その真理を認め、その価値を評価し、その倫理を実践する人はほんの一握り
の人でしかない。13.20.2.18927 10 2016放蕩息子の説話の意味は、「内なる神」よりパンを提供されているのに、自
身から逃げ出し、世俗的人生というもみ殻で自身を養う男のことを意味して
いる以外にあるだろうか。6.8.4.24728 10 2016イエスは「長期的修行」より「短期的修行」を、人間を苦しめる動物的欲望
や世間的欠陥よりも自身に存在する天国に重点を置いた。15.23.5.13929 10 2016…「私」はその思考から離れることは出来ない、何故ならそれが思考を構成
しているからである…6.8.2.46, 巻30 10 2016死の瞬間にその過去の全てが自動的に生き返るとは皮肉である。死に行く人
は過去の人生をもう一度繰り返さなければならない、しかし今回は異なる観
点からである、何故ならエゴの利己的な、色付けし、歪曲したエゴの作業が
存在しないからである。今や彼は公平で色の付いていない立場から見るので
ある。言い換えれば、実際の事実を本当の姿で見る、つまり自分のことにつ
いても、本当の自分を見るのである…6.9.1.113, 巻31 10 2016
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