毎日
人生の意味はそれ自身で直ぐには現れない、それは探求しなければならない
のである。その探求がこの修行である。2.1.1.101 1 2020彼らは、この混乱する世界の不幸や、苦悩、残酷さから逃れ、光、温かさ、
親切心や平和等の何かを求めてこの道にやってくる。2.1.2.2032 1 2020この修行の実践により喜ぶべき結果がでなくとも、その修行が無駄だったと
言うことではない。「内なる神」の存在を信じ、不毛とも思える瞑想の結果
に忍耐していけば、やがて少なくとも悟りはやってくる。しかし、誠実に毎
日励まなくてはならない。4.4.1.3913 1 2020人と宇宙の進化には無限の数の可能性が存在する。その中で、ある一つの進
化が成就されたとすれば、それは「世界意識」という—一つの方法に従ってい
るからである。16.26.1.684 1 2020愛は樹木からの種や果実にとっての太陽である。それは自己実現という方法
の一つの部分でもあり、目標自体の達成という結果でもある。12.18.1.815 1 2020精神的なことから物理的なことまで--疲れて睡眠に入るまで--私たちを一つの
活動から次の活動へと忙しくさせているのは、自我そのものである。そのよ
うな方法で、最も重要な活動--自我そのものと闘い、それを絶滅する必要性
から私たちの注意をそらせているのである。6.8.4.4216 1 2020そのような時間は短く異例であるが、私たちを高揚させ、内省させる。その
とき、私たちは究極の可能性として、平和と喜びがあるのを感じるのであ
る…14.22.4.128, 巻7 1 2020彼は彼の心に見知らぬ「神」に対する祭壇を掲げた。それ以来、彼は孤独の
沈黙の中でその神を崇拝している。彼の孤独の時間はその予約を大切にして
おり、彼の沈黙の時間はそれに注がれている。12.18.1.368 1 2020… 私たちの感覚はそれらを感ずるように習慣付けられたことに対してのみ、
感ずることが出来る。私たちの理性も同様に理解するように習慣付けられて
いないことは、理解することが出来ない。通常考えられている方法の範囲
で、感覚と理性の解放は受け入れるべきであるが、これらの範囲を超えた何
かを私たちは探求しなければならない…5.7.8.1, 巻9 1 2020彼はある時期に哲学者で、その後は (大抵の時間) 覚知されていない人である
ようなことはあり得ない、だがそれが、この修行のため、彼がそのような人
であると想像して考えることによって可能なのである。 先行する個人的歴史
の観点から考えると厚かましい考え方だが、彼の現在の願望、決意、そして
自己訓練が十分大きなものであるとき、それは革新的な改革の手段になり得
る。15.23.6.14110 1 2020この不思議な瞬間には二つは一つになっている。彼は現実の単なるイメージ
には生きていない。彼は今や本当の真理の世界に存在している。14.22.6.8111 1 2020霊的自尊心はキリスト教の聖者たちによる自己欺瞞の源泉であり、聖者を目
指す修行者が陥り易い最後の罠である。ある人が極めて気高く、自制心が
あったとしても、その人がこのような人格を自己満足や自己優越感で達成し
たとき、その途端に自我を強めていることになる--彼のプライドは世間的こ
とから霊的なことに移ってしまうのである。12.18.3.3912 1 2020西洋においてキリスト教の誕生となった人間の思考と社会の大きな変化は、
次の時代を迎えようとする現代の変化と類似している。その努力と労苦は既
に始まっている…9.13.4.190, 巻13 1 2020このような思想は特に新しいものではない、しかし、それらは半分忘れられ
たか、全てが看過されてしまったのである。しかしながら、それらをもう一
度宣旨する時は来ている…13.20.2.90, 巻14 1 2020… 努力をしないで結果を得ようとする教徒、苦労の多い旅をその最後まで懸
命に続けようとしない人は、それを得ることは出来ない。彼は、一つの見方
よりより高い見方に変えなければならず、多くの労苦を弱い意志に打ち勝
ち、それらを征服しなければならない。しなければならないことを自身で終
了したとき、その時に初めて、その努力を中止し、静かに恩寵の輝きを待つ
ことが出来るのである。光が現れ二度目の誕生が生まれるのはその時であ
る。15.23.2.65, 巻15 1 2020… 400年前、完全なる悟りに達したドイツ人、セバスチャン・フランクは、
次のように書いた「神を見つけるために海を渡る必要はない--「神の言葉は
そこにあり、 汝の心 にある」と。2.1.5.286, 巻16 1 2020訓練されるべきものが単に姿勢であったとしても、それは良い結果を与える
価値のある訓練であり、実践である。何故ならこの「あたかも~」の方法
は、主導的力を持ち、「短期修行」の重要な部分だからである。15.23.6.14717 1 2020彼が瞑想について一定の時間を取ることが出来ても出来なくても、霊的成長
には基本的重要部分を有していることがある。これは信仰の根本的姿勢であ
り、深奥の根本存在について覚知したいという強い願望である。2.1.2.12418 1 2020「内なる神」を身近に見る悟りを得たとしても、それは内的性格か外的性格
か、またはその両方による何らかの出来事かに依存するであろう。14.22.6.2619 1 2020霊的静けさを保つ修行は公式的には修道院に限定されており、一般の信者に
知らせてはいなかった。ミゲル・デ・モリノスがこの状態を変えようとした
とき、それは厳しく反対された。4.4.1.10220 1 2020哲学的著作を通常の勉学にしている人々は、人生を有意義に過ごしていると
言える。5.7.7.12521 1 2020キリスト教徒の食事の前の祈り、ヘブライ人のその食事前後の感謝の祈り
は、イスラム教徒が一日五回短い祈りを唱える理由と同様の理由と説かれて
いる。これは人生の高位の目的を日常の生活に思い出す行為なのである。12.18.2.2522 1 2020もし今日が地球上の最後の日だとあなたが知ったとしたら、他人に対してど
のように振る舞うだろうか。短期的な態度は改め、小さな利己的態度や、些
細な感情やあなたの過去の障害となった厳しい見方などは捨てるのではなか
ろうか。少なくとも全ての人々に対して善意を持って対応するのではなかろ
うか。哲学が単に死に際してではなく、日ごろからどのように振る舞うかに
ついて、あなたに諭していることである。5.6.5.2923 1 2020態度を変えることによって柔軟性を発展させることも必要である、他の人た
ちはなぜそのような信念を持っているのかを観察し、自身の思考を彼らのそ
れと十分に触れ合うことである。これによって同情的な理解力が生まれる—
批判的な判断—これは避けなければならない。5.7.3.11424 1 2020人々があまりに頑固で自身の自我の犠牲になろうとしているとき、どのよう
な言葉も、教師の訓示もかれらを止めることは出来ない。そのときは、彼ら
が自身の行動により、最悪の結末に苦しみ、人生の教訓を受ける以外に方法
はない。13.20.2.17725 1 2020山は高く昇れば昇るほど、その道は寂しくなる。実は逆説があって、身体の
外では孤独感があるが、心の内部ではそれはない、そして外で孤独を感ずれ
ば感ずるほど、内部では感じなくなる。2.1.3.32226 1 2020「あたかも~のようだ」の実践は単なる思い込みや無理やり信じ込むことで
はない。それは、演技し、演ずる役割や実現する自己暗示に関する高位の性
格と霊的意識について連続して学習し、十分に理解することが要請される。15.23.6.11327 1 2020「聖なる心」が宇宙の背後には存在しているから、「聖なる智慧」と「聖な
る善」が宇宙には存在する。16.26.1.5228 1 2020ほとんどの修行者は、身体や感情、精神の訓練は喜んで受け入れるが、最も
大切な訓練は受け入れようとはしない。彼らは大切な自我は大切にしようと
する…1.8.0.30, 巻29 1 2020無軌道な性的欲望に消費された力は彼らを低い性格のままに閉じ込めてしま
う。この力は、意志や想像力、願い、祈りや瞑想により、抑圧することが出
来る。これが出来たときは、「内なる神」は聞く耳を持った彼らに行先を告
げてくれる。4.5.7.8930 1 2020歴史が既に示し始めているように、私たちは黙示録の時代に生きている。時
代に対する警笛は懺悔を要求している、世俗的なものから聖的なものへ、い
い加減さ、粗大さ、そして狂気から人生の高い目的を思い起こすことであ
る。心の底で何らかの応答を感ずる人は、それがどんなに弱くても、その重
大な直観に縋り、彼らに救いがあるまでそれらに導いてもらうべきである。7.11.3.48731 1 2020
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