毎日
... 身体が欲求すること、リクレーションや環境等の事は彼の関心に従わなければならな
い。しかし、全ての価値のバランスを崩してまでその関心に従うべきではない。彼はこの
地球上にこれらのことのためにのみ、生まれて来たのか。より崇高な人生の目的は無視さ
れても良いのだろうか。より健全なバランス感覚が必要である.9.13.1.306, 巻1 1 2016子供のときから成人期まで、人は彼自身、-- つまり身体、感情、そして思考が変化す
る。彼自身や人格についての概念はそれとともに変化する。「私」という壊れない人格が
あるとしたらそれは何処にあり、何なのであろうか6.8.2.542 1 2016それらを支配するため欲求と闘うことは出来る。これは難しい方法である。もしくは、そ
れらを忘れることも出来る。これはどちらかと言うと容易な方法である。それに順応して
いくには常に「内なる神」を思いだしていかなければならない。15.23.4.1003 1 2016祈りはその言葉が終わってから始まる。それは唇が活発に動かず、静かな時に最も活発に
なる。12.18.2.654 1 2016「啓発」が遂にやって来た時、それ以前の苦労や困難を埋め合わせてくれる。それらにつ
いて最早執着することなく、それどころか微笑をもってすら振り返ることが出来る。苦し
みですら既に過去の物となり、あまり重要でない、小さな出来事となってしまう。14.22.7.675 1 2016中間と最終段階との違いは「内なる神」についての感情が明確なものか、あるいは分離し
た存在か、または自己の本質か、一時の経験か、あるいは持続する一体感かの違いである。16.25.2.426 1 2016カルマは人が実際に行動したことによって形成されるものではあるが、それは人が長期間
思考し、強く感ずることによっても形成される。6.9.3.1477 1 2016「長期修行者」の思考は彼自身の自我が中心であり、「内なる神」からのものでは滅多に
ない。祝福すべき転換点は不動の信仰によって自己より離れる時に訪れる15.23.1.468 1 2016秘伝に通じた初期キリスト教徒は、キリストとは自分たちの高位の自己に他ならないこと
を十分に理解していた。当時それが真実だったとしたら、今でも真実のはずである...12.17.5.121, 巻9 1 2016彼は始めたことを終了しなければならない。稀有の高揚した平和、理解、力、慈愛の境涯
が自身の中で持続したものになるまで、彼は続けなければならない。14.22.8.3010 1 2016預言者や教師、聖者、聖人たちが全ての時代を通じて私たちの前に現われ、彼らが発見し
た内的生命と内的真理について語ってくれている。しかし、これらの教えを聞こうとする
人だけが、これらの啓示、説法、教説より利益を得ているのみで、またこの教えに弟子と
しての道を歩み、それによって利益を得ようとする人はさらに少ない。2.1.2.48011 1 2016何か重要なメッセージを完全に聞き取ろうとする直前、私たちは全身が自ずと静謐に包ま
れることを観察してみよう。それが最大の重要性を持ったものであれば、私たちは息をも
止めるであろう、それが最大限聞き取り、何らも見逃さないために必要な集中した静けさ
である。「内なる神」の静かなるメッセージを聞こうと待機する時は、私たちは身体の全
ての部分をさらに静謐にしなければならない!15.23.7.27712 1 2016自我を神に放棄したからと言って、自我を維持してはいけないと言う理由はどこにもない。
16.25.2.21713 1 2016全ての学習、瞑想、並びに行動より、修行者は徐々に内的に変革した人となる。全体的に
は大宇宙とのパートナーシップを常々考慮し、個人として全体から隔離しているというこ
とは幻想に過ぎないと認識した結果、真の哲学者となる究極の道に対しての確かなるステッ
プを取ろうとする。全世界の生命と自己の生命とが隠れた部分で合一していることを認識
したことにより、生ある全てのものに対しての無限の慈愛が生まれてくる。この結果、自
己の意志より宇宙意志を優先し、共通の幸福のため、偏狭な自己愛を世界に広がる願いへ
と変えていく。こうして、その慈愛は、太陽のもとに咲く蓮華のようにその心に満開とな
る...13.20.4.224, 巻14 1 2016彼が自分に起きている体験を他の誰かに起きているように見ることが出来た時、執着より
離れている確実な象徴と言える。6.8.4.45615 1 2016理性と感情、科学と神秘思想、共感と自己利益、実践と思考は車の両輪のように共存しな
ければならない。このバランスのとれた人生のみ真実に哲学的人生と言え、その他はそう
言えない。13.20.3.42616 1 2016この高位の境涯に達した時、彼は自分を大宇宙の一部であり、無限の真理に根差し、それ
によって支えられていると感じるようになる。しかし、この啓示は瞬間的なものである、
なぜなら彼は大きな引き寄せの力により、自己の身体に戻され、それにより通常の自分に
戻るからである。14.22.6.33217 1 2016実際に起きている案件があり、それが注意力を必要としている以外は心を何れかの考えで
満たしてはならない。15.23.6.2618 1 2016切羽詰った純粋に物質的問題や人が実行する結果について聖なる恩寵を願うとき、先ず自
身の中で聖なる存在を発見し、その後、あるいは少なくともあなたにとって可能な限りの
深い瞑想を実行した時点でのみ、求めている案件や結果について願うべきである。何故な
ら、そうすることによって、あなたはその願いを続けるのが良いのかについて導かれるだ
けでなく、恩寵を得るための好ましい状況に置かれるからである。12.18.2.15919 1 2016全ての人の外的内的人生は、隠れた実在--「内なる神」によって支配されている。正しく
見ることが出来れば、彼は、全ての事がその存在と活動を裏付けていることを発見するで
あろう。14.22.3.17920 1 2016それぞれの人間や個々の動物、植物、細胞、原子の中心には、完全なる静謐がある。それ
は空虚な静けさに見えるが、実はその存在についての聖なるエネルギーと聖なる考えを持っ
ている。16.26.1.21321 1 2016食に関する最大の改革は肉食を止め、肉を食べない食事にすることである...
4.5.3.5, 巻22 1 2016彼が日々の仕事や雑事への欲求より内的に自由になればなるほど--即ち、それらの執着よ
り、離れ、自身の興味、愛や欲求を高位の自己に振り替えることが出来れば出来るほど--
好ましくない条件を克服する彼の力は大きくなる。9.13.1.40623 1 2016これらの苦しみが私たちに安息を求め、刺激となって信仰を深めさせ、霊的努力の推進力
となり、修行の道へと駆り立てる。それらの苦しみがなければ、物事の表面上でしか生き
ようとせず、つまらないことにエネルギーを浪費し、人生の本当の目的を見失ってしまう。9.13.1.31924 1 2016エゴはそれ自身と全ての形態での譲歩や休戦を完璧にすることが出来る--良心とは道徳面
で、知性とは論理で、信仰とは霊的な面で—それが高位のレベルであろうと低位のレベル
であろうと、完璧に素早く身を交わし、言い逃れ、回避し、感情を隠蔽することが出来る
のである。6.8.3.5725 1 2016もし、私たちが正しく思考するとするならば、「内なる神」は私たちの内部にのみ存在す
ると思考することで止まることは出来ない。この考え方が堅固に確立され形而上並びに信
仰としての価値を持った時、今度は、「内なる神」は私たちの外にも存在すると思考する
ことにより、先ほどの考え方を完成しなければならない。初めの考え方では、「内なる神」
が空間の一点を占有するのに対して、二番目の概念では、それは全ての空間を超えてしまっ
ている。14.22.3.39126 1 2016人は自身の霊的性質を知らないだけではなく、もっと悪いことに自身の性質について誤っ
た考えを持っている。影—エゴ—を本質--「内なる神」と捉えている。結果—-身体--を原
因--霊と考えている。6.8.2.3927 1 2016高位の生命の力は大変大きいのでそのチャネルになれる人は--恩寵が他人の高位の生命に
よって与えられるとき--他人を思うだけで彼らに影響を与えることが出来る。彼は彼らの
傍にいる必要もなく、接触することも、話しかける必要もない。16.25.5.26828 1 2016人類は神にあまりにも近くにおり、またあまりにも遠くにいる!新しくやってくる毎日は
「内なる神」からの人に対する新しい呼びかけである。2.1.2.44529 1 2016彼のこの段階からの努力は、瞑想の場面から静謐を得るために妨害となる精神的関連物と
情的影響を取り去ることである。それらを取り除くことに成功した時、それ以降は何もす
ることはない、ただリラックスするだけである。15.23.7.25030 1 2016思考を整え、静謐を涵養し、哲学が指し示した金言により、行動してきた者は、人生の夕
陽が訪れた時、後悔することはなく、反対にそれを喜んで迎える。0.2.2.6731 1 2016
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