毎日
... 私の心の深部では誰からも距離をおかない、それはこの教えが深くそれを理解したとき、何
人も疎外しないのと同じである。私はこの教えについて執筆を始めた途端にそれを名づける必要
があった、そこで哲学と称した、何故ならその呼び名が茫漠として一般的で1つの教団の占有物に
は出来ないというのがその理由であった。また、そのように呼ぶことでギリシャ人達がエレウシ
ス秘儀においてイニシエーションで学ぶ霊的真理を「哲学」と呼び、イニシエーションを終えた
者を「哲学者」、つまり叡智を愛する人と呼んだギリシャの昔に戻りたかったのである...13.20.1.18, 巻1 1 2015人がこの教えについての高貴さ、偉大さ、壮大さ、究極性を考えたとき、ヒマラヤ山脈を初めて
目にする旅行者と同じ思いをするだろう、そこでは気高くも広大な頂上が雪を頂き、左を見ても
右を見ても視線の続く限り地平線の彼方まで延々と広がっているのである。13.20.1.5242 1 2015... この道を究めようとしている人を哲学の徒と呼ぶ以上に広範で良い呼び名を私は思いつかな
い...13.20.1.18, 巻3 1 2015世間が人間の経験にとって何であれ、それは重要な意味で夢の如くと言える... それについて考
究しようとしない人にとって、世間は目に見えるように明確なものである。しかしながら悟りを
開いた賢者にとっては儚い夢の世界を少しだけまともな形にしたようなものでしかない。どちら
の場合も思考が作ったものであってその奥にある「心」だけがその「本質」なのであり、「心」
だけが真理なのである。「心」を離れたら世間は存在することさえない、それは夢を見る人を離
れて夢が存在しないのと同じである。13.19.1.34, 巻4 1 2015このまぎれもない存在感が続き、世間での経験が精神的なものだとの認識が確立され、これらの
結果、静寂さが揺るぎのないものになったとき、その人は真実に目覚め、真理を知ったと言って
良いだろう。16.25.2.1495 1 2015私たちの地球上の人生の全ては所詮、この修行のための、一種の準備期間以外の何物でもない。
2.1.1.1976 1 2015他の方法によるゴールへの道は二面的原理に依存するため、低いレベルのものとなってしまう。
しかし、短期修行は二面的でない、それはゴールとともに始まり、ゴールとともに終わる、その
方法は直接的であり、その効果は瞬時である。15.23.1.27 1 2015「内なる存在」は、エゴが十分に謙虚になり、後退し、屈服したとき、表面に出、その姿を現す。
これは間違いなく保証されている。何故なら私たちが「神の愛」の中に永遠に生きているからで
ある。12.18.4.1398 1 2015「啓示」はあまりにも穏やかに意識へと入り込むので初めは全く気付くことはない。あるいは奔
流のように激しく押し寄せて来るので人は完全に圧倒されてしまう。その瞬間、知識、理解力、
意義、気高さや神聖さがオーラとなってその人を包む。14.22.6.399 1 2015全てが大衆に語られることはないとしたら、それは大衆、あるいは「教会の父」オリゲンが呼ぶ
ように「単純な人たち」に受け入れられないというのが理由の大半だったであろう。あるいは哲
学者たちに対しての暴徒の騒乱が起きたアレキサンドリアの歴史に見られるように彼らにとって
あまりにも難解過ぎたのだろうか。オリゲンはそこで展開する自己の教義に転生と菜食主義を頑
なに取り入れた。しかしながら、このうち、一つだけでも、その当時、またその後、どれだけ大
衆に受け入れられたであろうか。12.17.1.16510 1 2015... 「内なる神」に対しては子供が親に対するような疑いのない信仰を持つこと、そして幼き子
が両親に対して完全に依存しているようになることが極めて重要である...3.2.1.209, 巻11 1 2015... 「内なる神」を思い起こす努力を根気強く続けていると、前世より引き継いできた物質的に
考える精神性は弱まっていき、注意散漫な傾向性も克服されていく。最終的には瞑想の時、到達
する状態と同様に霊的に思考を集中させることが出来るようになる、この場合、世間での活動を
止めなくてもこれが可能だという恩典が追加される...15.23.6.186, 巻12 1 2015「短期修行」の第一段階と第二段階では自己の意識が囚われているエゴから脱却することがその
目的となる。15.23.1.10013 1 2015... 知的に探究する方法では「内なる神」に到達することは出来ない、何故なら思考はいくつか
の概念の関係性を検討するだけで、二面性や有限性、あるいは個々の枠に止まっているからであv
る。それは全体を把握できず、個々しか見えない。思考に依存する理性は力不足で「内なる神」
の神秘性を理解することは出来ないのである。悟りは経験され、直感されるものでなければなら
ない...5.7.8.1, 巻14 1 2015祈りの真の目的は祈る度に何らかのご利益を願うのではなく、低き自己から「内なる神」への渇
仰を表現することであり、エゴにより暗闇の世界に生きようとする欲望を父なる光の世界へと昇
華する願いを表現することである。12.18.2.11815 1 2015物質世界に全く目覚めぬまま夢を見続けていた事実に目覚めたとき、それは驚嘆すべき瞬間であ
る。何故なら、その時こそ、人は科学的事実として、自己の周りの空間や足元に感じる抵抗感や
固さ、あるいは手に触る物体の固さや柔らかさは、精神的創造でしかないことを知ることが出来
るからである。13.19.3.9316 1 2015この回想は努力や意志の力を使用したりする必要はない。愛の力によって根源なる存在に向き合
う行為である。愛がそのありかを示し、愛が注意力を集中させ、維持させ、従順にさせてくれる。15.23.6.25517 1 2015「内なる神」より放射された意識は、意識の創造物に過ぎない思考にあまりにも密接、かつ連続
してまつわりついてしまうため、思考の活動により生まれる幻想に過ぎないエゴを意識と同一視
してしまい、より大きく、無限の根源があるのを忘れてしまう。6.8.2.4718 1 2015自己の前で「光」を見ることは1つの境涯、それに合一するのは別の境涯だが、こちらのほうが優
れている。14.22.4.20419 1 2015思慮深い人は直感的あるいは医学的に人生の最終月か最終年に入ったことを知り、死への準備を
するべき時が来る。世俗的なことから撤退することを増やすことは当然であろう。様々な活動、
欲望、執着や享楽は、悔恨、崇拝、祈り、禁欲や精神的回想に益々道を譲らなければならない。
故郷に帰る時が来たのである。6.9.1.3720 1 2015... 人だけが神を求めているのではなく、神もいつも人を待っているのだということ、恩寵はそ
れを示す最終的、光輝ある、そして揺るぎのない証拠である。...3.2.9.67, 巻21 1 2015人が小さなエゴの言うことだけを聞き、「内なる神」のことを聞かず見ずに生き続けたとき、そ
の狡猾さや油断のなさは肉体がなくなり、精神が元の居場所に戻るときにほとんど役に立たない。6.9.1.3522 1 2015... 「内なる神」はそれぞれの人の中に存在して証人として彼の行動を見ており、不変の意識と
して存在し、人に意識を授けている。14.22.3.338, 巻23 1 2015恩寵を齎してくれる人、この道の修行を助けてくれる人、また本当のマスターは、人間としての
マスターではなく、自身の心に存在する「内なる神」であると悟ることは最終段階までない。生
きているマスターがしてくれることは寝ている直感を起こし、隠れている信仰心を呼び起こし、
新しい道に進むことを促し、それについて指導し、修行者の性格上、起こりうる問題点を指摘し、
それについて対処する方法を教えることである。2.1.6.81624 1 2015常に静謐な「心」に存在する絶えず積極的に動く「心」--- これが神だけでなく、人についての
真実である。16.25.1.925 1 2015我々は素晴らしくも重要な時に生きており、この「道」に進む者にとっては暗黒の中で光の持主
になる使命がある。しかしそうなれる前に自分自らが浄化し、気高くなり、自己教育をしなくて
はならない。聖なる恩寵に対して相応しい自分になる必要がある、何故なら自身の力では何も出
来ないからである。3.2.5.8326 1 2015「内なる神」は時間の中には存在しない、だから歴史というものがない。それは現在あるがまま
であり、初めも終わりもない。過去から未来、1つの出来事から別の時の出来事を考えようとす
る頭脳にとっては、このような考え方は荒唐無稽で、理解しがたく、困惑するものである。13.19.4.10927 1 2015回想と心を静謐の中で鎮めること、これより素晴らしく晴れやかな晩年の生き方はないであろう。
9.13.3.18628 1 2015.... 霊的な進化を純粋に求めている者は現実的な欲望を聖なる祈りに持ち込むことを通常、恥じ
る。彼は自己を向上し、浄化させ、変革するため、懸命に励んでいるだろうから、正しきことに
対する祈りを逡巡することはない。高位なる法、「内なる神」に向かう自己の霊的義務について
の深き理解とより暖かい愛については祈ることであろう。12.18.2.9, 巻29 1 2015神秘主義者のように内的自己を知るだけでは十分でない。「真理」を悟る前に外的世界の本当の
姿を知らなくてはならない...13.20.4.96, 巻30 1 2015... 地球上での人生における高位の目的を広く深く見失っているために、人類は、災難を経験し、
その結果、苦悩を体験した。哲学の道を歩む者にとって、盲目の男女にこの目的を目覚めさせる
ことは崇高な使命であり、慈悲溢れる任務である。9.13.1.274, 巻31 1 2015
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